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注意! Warning! |
駒込 武
はじめに
19世紀における植民地主義の地球規模での拡大は、西洋世界のアジア・アフリカ世界に対する知識・興味・関心の増大を招き、キリストの福音を世界に宣べ伝えることを目指すミッションの活動を活発化させた。19世紀後半から20世紀にかけての西洋世界と非西洋諸地域との文化交流の歴史は、ミッションの存在を抜きにして考えることはできない。もとより、この場合の文化交流は、「対等で自由な交流」を必ずしも意味するわけではない。ひろた・まさきが述べているように、「異文化間の対立・抗争や差別の関係」に満ちたものが近代における「文化交流」だったのである1)。
西洋世界の影響力の浸透は、しばしば「文明化の使命 (civilising mission)」という観念によって正当化された。ヴィクトリア期(1837―1901)の大ブリテン連合王国 (the United Kingdom of Great Britain、以下「ブリテン」という呼称を用いる)の場合、経済の面での自由貿易主義、福音主義的(evangelical)なキリスト教、西洋風の生活様式から科学・技術まですべてを文明の構成要素として、「蒙昧」な民に広めていくべきだとの思潮が支配的だった。文明化への圧力は、異文化との抗争をはらみながら、非西洋諸地域の人々の中にも「文明」と「野蛮」という2分法的な価値観を浸透させていった。それはまた、資本主義世界システムの「中心」となる地域と、「周縁」化された地域という関係をさまざまな次元で形成していくプロセスでもあった。
本稿では、このような「中心」と「周縁」の文化の関係史を、「西洋」と「日本」という一元的な対立軸ではなく、幾重にも折り重なった入れ子構造として分析していきたい。「文明」は「野蛮」を必要とし、「中心」は「周縁」を必要とする。「中心」の中に「周縁」があり、「周縁」の中に「中心」があるようなダイナミズムの中でこそ、文明化への圧力の働き方もまた明確になると思うからである2)。具体的には、アヘン戦争以後中国・台湾で宣教活動を始めたイングランド長老教会(Presbyterian Church of England)のミッションを分析の対象とする。次の2点において、この教会は、多元的な「中心―周縁」構造を反映する興味深い存在だからである。
第1点は、イングランドとスコットランドとの関係である。19世紀の段階では、イングランド長老教会は、人材面や財政面でスコットランド自由教会(Free Church of Scotland)に大きく依存しており、教会の成り立ち自体がイングランドとスコットランドの関係史の一断面を象徴している。
従来は、イングランドの歴史をブリテンの歴史とみなしてしまう傾向が強かった。しかし、「大英帝国 (the British Empire)」という共同のプロジェクトが終焉を迎えた今日では、ブリテンの歴史を改めてイングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドの関係史としてとらえ直す試みが進展しつつある3)。近代日本に関する「国民史」的叙述を相対化し、「世界史」をもっぱら国民国家の関係史としてとらえる観点を脱却するためにも、ブリテンという国民国家に内在する「中心―周縁」構造に着目していくことは有効だろう。
2点目は、イングランド長老教会が台湾での宣教事業に着手した点において、中国・台湾と日本という「中心―周縁」構造にも関係しているということである。
アヘン戦争は、東アジア世界全体をブリテンという「中心」に奉仕する「周縁」におとしめる役割を果たした。その中で、近代日本は、日清戦争、条約改正、日英同盟の締結という一連の歴史的なプロセスを通じて「周縁」化への圧力を脱すると同時に、それまで中華帝国の「周縁」に位置していた台湾や朝鮮を自らの「周縁」として組み込み、東アジア世界に近代帝国主義体制を成立させる役割を果たした。それは、西洋文明を受容する立場から、他のアジア諸民族に普及する立場に転じたということでもある。近代日本における西洋文明受容の特質は、こうしたアジア諸地域との関係の中でこそ明確になるであろう。
近代資本主義体制が地球の隅々までを覆いつくす中で生み出された、重層的な「中心―周縁」構造。ブリテン、日本、中国・台湾を串刺しにして、一つの「地域」として貫いていく「文明化」への圧力。イングランド長老教会によるミッションという対象そのものが、こうした「地域」への新しいアプローチを必要としていると考えられる。なお、本稿であつかう範囲は主に19世紀のブリテンと中国・日本との関わりであり、日本による台湾支配については20世紀初頭の支配体制の確立期について言及するにとどまる。日本の植民地支配に焦点を絞りながら、ミッション、抗日民族運動、植民地権力の三つどもえの関係を分析していく作業は機会を改めて行うことにしたい。
一.ミッションの母胎
1.連合王国の「中心」と「周縁」
アヘン戦争以降、他の宗派と競うようにして、中国南部に宣教師を送り込んだイングランド長老教会はどのような社会階層に支えられ、教会組織や神学的にはどのような特徴を持っていたのだろうか。そして、中国へのミッションという自己拡張への意欲と情熱はどのように生じたのだろうか。
このような問いを考え始めたとき、実はイングランド長老教会という名称そのものの中に、ブリテンの内部での「中心―周縁」構造を反映する、ある種のねじれが存在することに気づく。ブリテンの中核部であるイングランドでは長老派(Presbyterian)は少数派であり、スコットランドで支配的な教会のあり方だからである。
表1を参照してほしい。イングランド長老教会が19世紀に台湾に派遣した宣教師の一覧である。ここでは医療宣教師と女性は除いてある。学歴1は、大学などの高等教育機関、学歴2は神学に関わるものを示す。後者の欄のグラスゴー自由教会神学校(Free Church College, Glasgow)とエジンバラ・ニュー・カレッジ (New College, Edinburgh)は、いずれもスコットランド自由教会の創設した神学校であり、1900年以前に派遣された宣教師11名のうち9名が同教会に属していたことがわかる。特にグラスゴーの出身者が多い。たとえば、グラスゴーの商人の息子として生まれたバークレイ(T. Barclay)の場合、自由教会神学校在学時代に校長の弟であるダグラス (C. Douglas)から中国へのミッションの話を聞いて、スコットランド自由教会によるインドへのミッションを辞退し、イングランド長老教会の中国へのミッションに参加するという選択をしている4)。
氏名 漢字名 生年 学歴1(卒業年) 学歴2(卒業年) 所属教会 活動開始 活動終了 没年 Hugh Ritchie 李□ ロンドン長老教神学校 イングランド長老教会 1867 1879 1879 William Campbell 甘為霖 1841 グラスゴー大学(1867,中退) グラスゴー自由教会神学校(1871) スコットランド自由教会 1871 1918 1921 Thomas Barclay 巴克礼 1849 グラスゴー大学(1870) グラスゴー自由教会神学校(1873) スコットランド自由教会 1874 1935 1935 David Smith 施大闢 スコットランド自由教会 1875 1883 William Thow □為霖 グラスゴー自由教会神学校(1880) スコットランド自由教会 1880 1894 1894 James Main 買雅各 グラスゴー大学(1877) グラスゴー自由教会神学校(1881) スコットランド自由教会 1882 1884 W.R.Thompson オックスフォード大学マートン・カレッジ(1882) ロンドン長老教神学校 イングランド長老教会 1882 1887 George Ede 余饒理 1855 モルレー・ハウス エジンバラ・ニュー・カレッジ スコットランド自由教会 1883 1896 1905 Duncan Ferguson 宋忠堅 1860 グラスゴー大学(1885) グラスゴー自由教会神学校(1889) スコットランド自由教会 1889 1923 1923 Campel N Moody 梅甘霧 1866 グラスゴー大学(1884) グラスゴー自由教会神学校(1888) スコットランド自由教会 1895 1931 1940 A.B.Neilson 廉得烈 1863 グラスゴー大学 エジンバラ・ニュー・カレッジ スコットランド自由教会 1895 1928 1937 出典 W. M. Macgregor, A Souvenir of The Union in 1929, With an Historical Sketch of the United FreeChurch College, (Glasgow: Trinity College Union, 1930), Edward Band, Working His Purpose Out: The History of the English Presbyterian Mission, 1847-1947, (London: Presbyterian Church of England, 1947)、台湾基督長老教会総会歴史委員会『台湾基督長老教会百年史』(台南:台湾教会公報社、1965年)、陽士養『信仰偉人列伝』(台南:人光出版社、1995年)
20世紀になるとイングランド長老教会による聖職者養成が軌道に乗りはじめることでスコットランド色は薄れるのだが、それにしても19世紀のスコットランドとの関係の深さは何を意味するのだろうか。この点を理解するためには、簡単にでもブリテンのキリスト教の歴史を振り返っておかねばならない。
16世紀の宗教改革において、イングランドではローマ教皇に代えて国王を教会の首長と認める改革を行った。しかし、教会制度や教義の面でドラスティックな変化はなく、聖職者のヒエラルヒーを特徴とする主教制度(Episcopacy)を採用した。他方、スコットランドでは、ジョン・ノックス(J. Knox)の主導により宗教改革が達成され、カルヴィニズム神学に基づく長老制度を次第に整えていった。トップ・ダウン方式の主教制度とは対照的に、長老制は合議を特徴としていた。すなわち、各教区の小会(Kirk Session)、複数の教区からなる長老中会 (Presbytery)、最高議決機関としての総会 (GeneralAssembly)などがおかれ、各レベルの代表は選挙で選出された。聖職者でない平信徒も「長老」としてこれらの合議体で重要な役割を果たすことが特徴であり、全国総会は「身分制議会よりもずっと真の意味でスコットランド議会であった」と評されている5)。
教義上では、ヴェーバー (M. Weber)が『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で着目したウエトミンスター信仰告白(WestminsterConfession)、特にそこに表明された救済予定説がカルヴィニズムの核心である。この信仰告白は、ピューリタン革命のさなかの1648年、スコットランドの代表も参加した神学者会議により公布されたものだった。その後、イングランドでは王政復古により主教制派が息を吹き返し、長老派がほとんど根絶やしにされたのに対して、スコットランドでは長老派が国教会(theEstablished Church)としての役割を果たし、「ウエストミンスター信仰告白」が正統的な教説としての地位を占め続けた。
1707年、イングランドとスコットランド両王国の「連合」が成立した。両国の国力の差を考えれば、これは実質的に前者による後者の「併合」であったと言ってよい。ただし、スコットランド人は独自の議会を失うこととひきかえに、北アメリカなどイングランドの植民地と通商する権利を手に入れた。その結果、煙草などの大西洋横断貿易により、スコットランド随一の産業都市としてグラスゴーの発展が始まることになる。他方、宗教的にはイングランドの主教制への妥協を余儀なくされた。すなわち、ロンドンの議会の決定により、スコットランドの地主階級の牧師叙任権が法律で保証されることになったのである。これは、合議体が牧師の叙任権を持つという長老派の原則からの重大な逸脱であり、地主階級(イングランドではジェントリー、スコットランドではレアードなど)の利害を反映する世俗的国家に教会が従属させられることを意味していた。
18世紀末から19世紀にかけて、牧師叙任権への反発がスコットランド教会の内部で噴出し、1843年にはスコットランド教会史に残る大事件、大分裂(Disruption)が生じた。全国総会の場でトーマス・チャルマーズ(T.Chalmers)率いる人々が全体の半分近くの牧師とともに退出、スコットランド自由教会を創設したのである。チャルマーズらの目標は、従来の国教会の財源に頼らず、ボランタリーな基盤の上に「キリストの掟が国家の主張により妨害されない」教会を作ることだった6)。
自由教会の支持基盤となったのは、産業革命による産業化と都市化の趨勢のもとで勃興しつつあった都市中流階級だった 7)。スコットランド教会が長老主義からの逸脱を認めていたばかりではなく、教義上でもカルヴィニズムの厳格な教えを緩和する傾向を示していたのに対して、自由教会派の人々は正統的カルヴィニズムの厳守、その具体的な表れとしての安息日の遵守、禁酒や勤勉の強調、学歴の重視、都市貧困層や海外への伝道熱において際だっていた。
自由教会の支持者はまた、政治的には自由党の支持者であり、経済面では国家による規制の排除を強調するレッセ・フェール(laissez-faire)主義者だった。スコットランド教会史を社会問題との関わりで批判的に検討したスミス(D.C. Smith)は、経済学者アダム・スミス (A. Smith)がグラスゴー大学の教授だったことに注意を促しながら、レッセ・フェール主義とキリスト教道徳の調和を説く議論の問題点を次のように指摘している8)。「教会は、神が無限の英知によってある人々を高い位置にあげ、ある人々を低い位置におろしたと信じたのであり、この選択は人々の道徳的な価値と関係があると教えた。神は『自ら助かるものを助く』のであり、成功、富、財産は、個人の勤勉、倹約と神の選びの証であった。…このように成功と不平等に対する神学的な合理化がなされていたために、衝撃的な貧困と悲惨の中で、富める者、成功した者は自らの富と成功について罪の感覚を持たずにすんだのである。」
「神の栄光のみ」を目指した個人の勤勉な活動が結果としてその人に富をもたらし、富が逆にその人の選びを証するという信仰。自由貿易主義という市場での交換を通じて「神の見えざる手」が働くことにより、個人の利益が結果として他者の利益ともなるという信念。イングランドのように地主階級の「洗練された文化」の伝統が分厚く堆積していないだけに、スコットランドの中流階級はこうした「資本主義のエートス」のもっともアグレッシブな担い手となったのである。
グラスゴーは、1830年代以降製鉄業や造船業を主とする重工業都市へと変貌、ブリテンの他のどんな都市よりも高い人口増加率を示し、世紀半後半には人口規模においてロンドンに次ぐ帝国第2の都市となった。そのプロセスで「衝撃的な貧困と悲惨」もまた顕著になっていった。1839年に議会に提出された住宅状況に関するレポートでは、「グラスゴーを訪れるまでは、こんなに巨大な退廃、犯罪、貧困、病気が文明化された国の一部に存在するとは考えてもみなかった」と報告されている9)。
急激な都市の膨張は、1840年代に大飢饉に襲われたアイルランドと、同じくケルト系の人々の居住するハイランド(スコットランドの北部)からの大量の移民に支えられていた。最底辺の労働力を構成したアイルランド移民は、カルヴィニズムのスコットランドにおいて、のローマ・カトリック教会とのつながりゆえに蔑視され、敵愾心に満ちた視線の対象となった。猿(Apes)や酔っぱらいというステレオタイプなイメージと結びつけて風刺の対象とされることも多く、トーマス・カーライルのようなオピニオン・リーダーたちも、アイルランド移民の流入は社会的な災厄(social disaster)であると述べていた10) 。勤勉、節制という「資本主義のエートス」を内在化したカルヴィニストたちと、その対極とイメージされたアイリッシュ・カトリックたち。その後、世界的に拡大されてゆく、人間像における「文明」と「野蛮」の2分法はここですでに明瞭な形で表れている。
上昇志向の中流階級の人々は、「中心」としてのイングランドに移民していった。そこで、宗教の問題が起きてくることになる。たとえば、オックスフォード・ケンブリッジ両大学は1871年まで基本的には非国教徒に対して閉ざされていた。そのために、スコットランドの大学がイングランドからの越境入学者を含めて非国教徒の教育の中心となる一方、パブリック・スクールからオックスブリッジへというエリート・コースを歩むためにはイングランド国教会派(Anglican)に乗り換えることが必要だった。イングランドで「『小さなスコットランド』を維持すべきか、それともイングランドの宗教生活の主流に適応すべきか」という問題が生じていたのである11)。1830年代にはスコットランド教会がイングランドの長老派の組織化に乗り出し、大分裂の翌年この組織が独立、創設したばかりのスコットランド自由教会との友好関係のもとにイングランド長老教会(PresbyterianChurch in England)を成立させた12) 。それは、ブリテンの「中心」への志向を持ちながら、他方でスコットランド人という「周縁」的なアイデンティティーも維持し続けようとする人々を主体として構成される教会だった。
以上に述べてきたことをここで簡単に整理しておこう。地域別の階層構造 イングランド―スコットランド―アイルランド
階級別の階層構造 地主階級―中流階級―労働者階級
宗派別の階層構造 イングランド国教会―非国教会(長老教会を含む)―ローマ・カトリック教会
地域別・階級別・宗派別の各次元は互いに独立したものである。一人の人がそれぞれの次元で複合的なアイデンティティーを持ちうるのであり、イングランド/地主階級/国教徒、スコットランド/中流階級/非国教徒、アイルランド/労働者階級/カトリック教徒という対応関係が常に成立するわけではない。ただし、それぞれの次元での序列は明確であり、第2層に位置する項目は、第1層に対しては抑圧されるものとして、第3層としては抑圧するものとしての地位を占めることになる。そのアンヴィバレントな性格をもっとも集中的に体現しているのが、首尾1貫して第2層に位置づくスコットランド自由教会であると言えるだろう。
1830年代から後半世紀にかけて、アイルランドの自治・独立問題が暗礁に乗り上げたことを別とすれば、「世界の工場」としての空前の豊かさを背景に、階層的序列に基づく差別は法的な次元では緩和されていった。と同時に、第1層と第2層との間の社会的なコンフリクトは、「自由貿易帝国主義」体制のもとでの大英帝国の拡張というプロジェクトに第2層の人々が積極的に参与することで、ブリテンの「外」へと転嫁されていった。そして、この人々こそ「文明」の秩序を世界の隅々にまで浸透させていく主要なエイジェントとなるのである。
2.H.M.マセソンの生涯 ―ヴィクトリア期の「成り上がり者」―
イングランド長老教会の海外宣教事業において中心的な役割を果たしたのは、ヒュー・マカイ・マセソン(HughMackay Matheson、1821―1898)である。彼は、19世紀のブリテンと東アジア世界との関係を象徴する人物であると言える。
ヒューには多彩な顔がある。一つは、宗教家としての顔である。イングランド長老教会の海外宣教委員会の委員長を1867年から1898年まで30年以上の長きにわたって努めた。宣教委員会の委員長という役職が、宣教師の人選、現地の活動状況に応じた資金の配分などに大きな権限を持っていた以上、19世紀の海外宣教史は彼を抜きにして考えることはできない。もう一つはビジネスマンとしての顔。アヘン貿易で名高いジャーディン・マセソン商会(Jardine and Matheson & Co.)のロンドン代理店にあたるマセソン商会 (Matheson& Co.)の共同経営者の一人であり、ロンドン商業会議所 (London Chamber of Commerce)の東インド・中国部会議長にも就任した。また一つは、ケルト民族としての顔である。スコットランドの「ケルト辺境(Celtic fringe)」の出身者である彼は、ゲーリック語の擁護者としても振る舞った。
彼の生涯はちょうどヴィクトリア期の栄枯盛衰と歩調を合わせている。すなわち、第1次選挙法改正(1832年)以後の改革の時代に青年期を過ごし、壮年期に自由貿易主義の黄金時代を迎え、1873年の「大不況」以後の帝国主義時代に老年期を迎えている。地域、階層、宗派のどの面でもブリテンの支配階級にふさわしい出自ではないにもかかわらず、ロンドン商業会議所東インド・中国部会議長という要職に就いた彼の生涯は、当時のブリテンのモビリティーの高さを示している。しかし、この時代にもオックスブリッジで教育を受けた貴族・ジェントリの政治支配はゆるがず、「商売人、事業家、金融業者は、たとえ成功して名をあげたとしても、要するに『成り上がりもの』」とみなされていた。すなわち、ブリテンの政治舞台ではあくまでもマージナルな存在であったのである。しかし、対「極東」世界という局面では重要な影響力を行使しうる立場にあった。そうした逆説的な関係こそが注目に値しよう。
表1 ヒュー・マカイ・マセソンの親族関係(太文字が本文で言及した人物)
Donald (1748-1810)
┌─────┬─┴──┬───────┐
John = Margaret Thomas James(1796-1887) Duncan(1784-1838)
| ├――――――┐
Alexander (1805-1886) Hugh Mackay Donald(1819-1901)Alexander Mackenzie, History of the Mathesons with Generations of Various Families, London: Gibbeings & Coy., Ltd., 1900により作成
まずは、ヒューの没後、妻アンの編纂した『ヒュー.M.マセソン回顧録』の中の自伝的な記述に基づきながら、彼の生い立ちについて述べていくことにする。ヒュー・マカイは、1821年エジンバラで生まれた。父はブリテン島の北の果て、スザーランドに1784年に生まれた。父も、父の家族もみなゲーリック語を母語とする人々であった。スコットランドは、文化的に早くからイングランドの影響を強く受けたローランド(the Lowlands)と、アイルランドに共通するケルト文化圏に属する北方のハイランド (the Highlands)とに2分されるのだが、マセソン一族はハイランドの出身者なのである。
18世紀の半ばにいたるまで、ハイランドの生活は、エジンバラ・グラスゴーを中心とするローランドにはほとんど知られていなかった。長老派の牧師がいる地域はごくわずかであり、「独特のタブーと祈りに基づく自分たちの儀式を執り行っており、それは、キリスト教の教えとは何の関係もなかった」のである14)。ハイランドではまた、クランを中心とした血縁的な絆が強く、首長はもっとも弱い者、貧しい者の生活に責任を持たねばならず、クランの成員は危機的な局面では相互に助け合うことが期待されていた。その社会組織は「19世紀のアフリカが部族的(tribal)だったのと全く同じ意味で、部族的であった」とも評されている 15)。
しかし、このハイランドにも次第にローランドの文化と長老派のキリスト教が浸透しはじめた。息子をローランドの学校に送った首長たちは、クラン社会を「野蛮」とみなすローランドの見方を取り入れはじめ、「多くの改宗者がそうであるように、自分たちの社会の劣等者を今や彼らが『文明』とみなすものに向けて改宗させるための、もっとも熱心な宣教者となった」のである16)。さらに、18世紀末から19世紀初頭にかけて、大規模な土地の囲い込みが行われ、多くの土地が羊たちの放牧場となった。ハイランド「清掃(Clearance)」と呼ばれたこの事態により、多くのハイランダーがアメリカ大陸などへの移住を余儀なくされた。特にこの「清掃」作業が激しく行われた地域として有名なのが、ヒューの父の生まれたスザーランドである。そこでは、「3分の2以上の土地を保有するスザーランド公爵婦人とスタッフォード卿が、羊を飼う場所を作るために、5千から1万にかけての人々を立ち退かせた。…中には明らかに老人がまだ中にいるのに破壊された家々があり、動物や身の回り品を運び出していないのに焼かれた家もあった」と言われている17)。
ヒューの両親たちは、必ずしも、このように家を追われて着の身着のままエジンバラに居ついたという人々ではないだろう。ヒューが生まれた当時、父のダンカンはエジンバラ近郊の執行官代理(Sheriff-Substitute)であり、ヒューも彼の兄ドナルドも名門のエジンバラ高等学校(High Schoolof Edinburgh)で学んでいるからである。ヒューの祖父がスザーランド公爵の創設した軍隊の旗手であり、長老派の牧師の娘と結婚していること、母方の祖父の仕事を父が継承していることを考えれば、むしろ長老派キリスト教徒への「改宗者」として、姻戚関係を通じて成り上がる道を切り開いたものと推定できる。ただし、ヒューは少年時代の回想として、叔母からスザーランドの小作人たちが移民を余儀なくされた「悲しい話」を聞いて育ったことを記している18)。また、後年の講演の中で「私の血管の中に、ハイランドのものでない血は1滴もない」と強い口調で述べてもいる19) 。ハイランダーという自らのエスニックなオリジンに自覚的であったことは確かである。
1836年、15歳の時にヒューはビジネスの世界に入ることになった。急死した従兄弟の代わりに、エジンバラ高等学校を中退してグラスゴーのジェームズ・ユーイング商会(James Ewing & Co.)に入社したのである。彼は、聖エノッホ教会 (St. Enoch's Church)の日曜学校の教師となり、1843年にグラスゴーを去る際には同教会の会衆の前で「もし大分裂が起きた場合には、不干渉と精神的な独立のためのプロテストに同意する」という誓願書にサインしている20)。
ブラウン (C.G. Brown)の研究によれば、グラスゴーのメイン・ストリートのつきあたりに位置する聖エノッホ教会は、当時もっとも「ファッショナブル」な教会であった。スコットランドに限らず、19世紀のブリテンでは教会の座席は1種の資産として売買の対象となっており、人気のある教会のよい席ほど資産価値が高かった。グラスゴーでは19世紀の前半に座席料が高騰、労働者・貧民向けの無料席は撤去される一方、ロケーションのよい聖エノッホ教会はもっとも高い座席料をとる教会となった。教会の座席は「教会に通う人々のコミュニティーの中で、社会的なハイラーキーの上にしかっりと座を占めていることを示す」可視的手段であり、名門の血筋とも学歴とも無縁な人物がリスペクタブルな存在として社会的なステイタスを得るためには、こうした教会との関わりが不可欠だったのである21)。
ヒューにとって人生の大きな転機は、大分裂と同じ1843年にやってきた。第1次アヘン戦争の結果南京条約が結ばれた翌年のことである。彼自身の文章から引くことにしよう22)。
「1843年のはじめ、私はグラスゴーの事務所に努めて7年目になっていたのだが、その頃叔父のジェームズが中国のジャーディン・マセソン商会に行き、ビジネスについての知識と経験を積むことを薦めてきた。これは、おそらく大きな富を約束した申し出だった。しかし、ビジネスの主な積み荷のうちの重要なものの一つがアヘンであることを知っていたので、悩み、また祈ったあげく、中国行きを断わった(編者注―この節目に会社の友人の紹介を通じて、ロンドンのマグニアック・ジャーディン商会(Magniac Jardine & Co.)に入社することになった。)」
この自伝の記述では、20歳をすぎたばかりのヒューは、言わば「富」か「良心」かという決断を迫られ、後者を選んだということになる。ただし、マグニアック・ジャーディン商会はマセソン商会の前身であり、ジャーディン・マセソン商会と深い関係にあった。アヘン貿易に直接手を下すのを避けながら、関連会社に入社したヒューは、いわば「富」も「良心」もという選択をしたことになろうか。
ヒューがジャーディン・マセソン商会への入社を勧誘された経緯を理解するためには、同族を中心とした合同出資会社という当時の支配的な経営形態を前提とした上で、彼の親族関係を確認しておく必要がある。図1を参照してほしい。ヒューの自伝にもでてくる叔父のジェームズは、1832年、ウィリアム・ジャルディン(W. Jardine)とともに、ジャーディン・マセソン商会を創設、この翌年東インド会社の対中国貿易独占権が廃止されたことにより、インドから中国へのアヘンの輸出を手がけはじめている。従兄弟であるアレクサンダーと兄のドナルドも入社、ジェームスとともに1839年には名指しで林則徐により中国からの退去命令を受けている23)。
ジェームズはアヘン戦争の終わった年に、自由党所属の国会議員として働くために中国での仕事から退いている。ヒューに勧誘の手紙を書いたのはこの翌年である。すでに述べたように、ヒューはこの申し出を断るが、1845年から46年にかけて「ビジネスの上で大きな利益がある」と考えて中国視察にでかけている24)。45年10月にサウサンプトンを出港、アレキサンドリアを経て、翌46年4月にベンガル湾に到着、6月に香港に到着してからは兄のドナルドともに台湾海峡を抜けて北上し、7月には終着点としての上海に達している。当時彼の書いた書簡類では、廈門で貿易に携わる中国人を評して「彼らはとても知性的で、他の東洋の諸民族よりもはるかにすぐれているが、中国人のよい見本ではない。多くの場合大変な詐欺師である。彼らはしばしばアヘン中毒に陥っているけれども、精力的でよく働く民族である」と書いている25)。賞賛と侮蔑とが奇妙にない混ぜになった評価と言えよう。
この旅行の中で、ヒューがアヘン貿易に対してどのような見解を抱いていたのかは定かでない。ただし、兄のドナルドは悩んでいた。ジャーディン・マセソン商会の社史によれば、「おそらく地域の宣教師たちの影響と、弟のヒューの訪問がきっかけになってのことであろう、ドナルドは当時西洋でも論争的な問題になっていたアヘン貿易について良心の痛みを感じはじめ、共同経営の任から退くことを考えた」とある26)。アレクサンダーは会社の利益の損失をもたらすような行動をすべきではないと警告するが、ドナルドは1848年に辞職。その後はイングランド長老教会の海教事業に携わる一方、アヘン貿易反対同盟に参加することになった27)。
ドナルドの辞職を契機として、マセソン一族は1850年代初頭までにジャーディン・マセソン商会の経営から次々と手を引いた。すでに引退していたジェームズは、スコットランドの北西海岸に位置するレヴィス島を買い取り、移民の流出をくいとめるために産業開発に努めた。アレクサンダーはヒューとともにロンドンのマセソン商会の経営にあたりながら、ハイランドに多くの鉄道会社を経営することになった28)。いずれも中国で獲得した富を、ハイランドの「文明化」に振り向けたということになろう。カルヴィニズムは「すべての富は神に帰属する以上、利己的ではなく有益な仕方で富を用いなければいけない」29)と教えているが、彼らはこの点でも「資本主義のエートス」の体現者であった。
3.アヘン貿易をめぐる葛藤 ―経済と道徳の「調和」?―
アヘンは、ブリテンの影響力の中国侵入に際しての暴力性を象徴するものである。
アヘン貿易は不正義であり、信仰という観点からは罪ではないのか。ブリテンでも労働者階級の間に蔓延していたアヘン吸引を攻撃していた教会関係者が、中国とのアヘン貿易を攻撃しないのは自己矛盾ではないのか。この難問への答えとして提出されたのが中国へのミッションである。
中国へのミッションは、もとより中国の人々が必要としたものではなく、ブリテンの人々が必要としたものであった。たとえば、スコットランドの匿名の長老教徒によって1842年に書かれたパンフレットでは、自分たちは中国から紅茶という恩恵を被っているのだから「殺人的なアヘンや暴力的な戦争よりもよいもの」としてキリスト教の宣教師も送り込もうと呼びかけている30)。「文明化の使命」の担い手として「極東」の世界に影響力を行使し続けることへの素朴な自信を前提とした議論である。マンガン(J. A. Mangan)は、多くのミッションに共通するこうした心性を分析して次のように述べている 31)。
「植民地の支配者は、植民地での行動と本国での行いの不一致から生ずる、罪の意識への防波堤を築かねばならなかった。道徳的な矛盾は合理化されねばならなかった。支配者は道徳的に欠点のある人物であってはならなかった。それは支配するための自信を掘り崩してしてしまうのである。このようにして、文明化の使命という観念が生じてくるのであり、植民地主義の名に価するものは必ずそれを伴うことになるのである。」
マンガンの比喩を借りれば、ミッションは、安い紅茶を獲得しながら、同時に自らが道徳的に劣るであるという罪の自覚に陥るのを防ぐために要請された「防波堤」だったと言えよう。
創設されたばかりのイングランド長老教会は、1845年に中国への宣教師の派遣を決めた。ただし、人選が難航した上に、「極東」から帰国したヒュー・マセソンが中国よりもインドを推奨したためにいったんは白紙となりかけた。ヒューの反対理由は、インドでのスコットランド自由教会の教育事業に感銘を受け、さらにこれを援助する必要を感じたこと、中国では24時間以内に開港場に戻れる範囲内でしか宣教師の活動ができないといった制限のあることだった32)。しかし、最終的には中国を宣教地域として選択し、1847年に最初の宣教師ウィリアム・バーンズ (W. Burns)を廈門に派遣することになった。
それにしても、ヒューはなぜ中国への宣教に反対したのか。中国での活動は制限が大きいということだけでは説得力があるとは言えない。理由として考えられることは、ビジネスマンとしての立場との矛盾である。カルヴィニストにとって重要なことは、世俗的な職業に誠実に従事することであり、ミッションも感情的・人格的な「隣人愛」というよりは、「神の栄光」を増すための義務として必要とされたことだった。ウエストミンスター信仰告白が述べるように、神は「選ばれた者」以外の「人類の残余の人々看過し、彼らをその罪のゆえに恥と怒りとに定め、こうして彼の栄光にみちた義の賛美たらしめることを喜び給うた」からである33)。選びを定めるのは神のみである以上、ミッションという行為によって罪の意識から逃れようとするのは、実は教えからの逸脱でもあった。先のパンフレットに見られたような提言が「感傷」として拒絶されたとしても不思議ではない。
ヒューの場合は、さらに具体的にジレンマに満ちた状況に置かれてもいた。イングランド長老教会の海外宣教事業は、「実質的に財務担当者自身のオフィス(マセソン商会のこと―引用者注)において運営されていた」のであり、「赤字が生じた場合には、財務部長と彼の寛大な友人により補われていた」からである34)。ヒューは、宣教事業を財政的に維持するためにも、マセソン商会のビジネスをないがしろにはできなかったのである。他方で、宣教師の活動は商会の活動との衝突を招く恐れがあった。
しばしば、この時代のヨーロッパ人の宣教活動は「左手に聖書、右手にアヘン」という言葉で象徴される。実際、中国でいち早く宣教活動に乗り出した人物として有名なグッズラフ(K. Gutzlaff)は、アヘンを満載したジャーディン・マセソン商会の船に乗りながら、キリスト教宣伝のパンフレットを配布して歩いていた。バーンズも、彼の援助に頼りながら中国での活動を始めている35)。しかし、ビジネスにとって常にキリスト教の宣教活動が常に有利に働くとは限らない。アヘン問題ということを度外視してもそうである。
『極東におけるブリテン人』という本の中で、ウッドコック (G. Woodcock)は、「ミッションへの衝動を伴った福音主義的キリスト教と、領土的商業的な野心を持ったビクトリア朝期の膨張主義ほど互いに適合的なシステムを見いだすのは困難である」としながら、他方で、「宣教師たちの多くがとりつかれていた情熱は、本気でそれが実行されたならば、実際的な行政官やビジネス・マンにとってはなはだ不都合なものだった。神の前でのすべての人々の平等という信念は、もし文字通りに実践されたならば、いかなる帝国主義的な社会も冷静にはうけとめることのできない行動パターンを生み出してしまう可能性があった」と指摘している36)。西洋近代文明の圧倒的な威力を持って立ち現れた経済面や軍事面での活動と比較したとき、宣教師たちの活動はあくまで周縁的であり、また、両義的だったのである。
アヘン問題は、こうした宣教師たちの立場の両義性をあますところなく示すことになった。先に述べたように、宣教師たちを派遣する費用の一部は、マセソン商会より支出されていた。しかしまた、宣教師たちはそれぞれの良心にしたがって行動した。バーンズに次いで廈門に派遣されたジョンストン(J.Johnston)の手紙では、激しい語調でアヘン貿易を非難し、「ああ、イングランドがこのような罪を犯すとは信じられるだろうか。しかし、これが事実、悲しい事実である。…イングランドは中国の人々を誘惑し、滅ぼすために自らの技術と商業を利用したのである」と告発している37)。
アヘン貿易を批判する主張も、宣教活動自体を否定しているわけではない。宣教師たちは中国人キリスト教徒の非難を浴び、「中国に来る外国人がもっとよい見本となるように、どうか神があなた方の母国に力強く聖霊を注がれんことを!」という皮肉な祈りに接する中で、アヘン貿易を宣教事業の妨げとみなさざるをえなくなったのである38)。しかし、宣教師はブリテン人の社会の中ではマージナルな存在であり、彼らの声がそのままビジネスを左右することはありえなかった。しかも、ジョンストンは、宣教師としては、2年間しか中国に滞在しなかった。表向きは病気という理由であるが、果たしてそれだけであったのか。疑問の残るところである。
他方、ヒューはアヘン問題についてどのような見解を抱いていたのか。公にされた彼の態度はあくまでも曖昧だった。たとえば、1870年のこと、『タイムズ』の記事がロンドン商業会議所東インド・中国部会が絹とアヘンの関税引き上げに反対していると報道したのに対して、絹についてはとにかく、アヘンについては事実でないと反論した上で、次のように自らの見解を述べている39)。
「私が司会する名誉にあずかったロンドン商業会議所の会議で、アヘン関税の問題は一切取り上げられませんでした。それは、ロンドンの商人にとって直接的な利害と関心に関わらない問題だったのです。私個人の意見として言えば、インド政府がこれほどの非難にさらされないような方向で私たちの東方における偉大な帝国の資源を開発し、アヘンの栽培と消費に不可避的につきまとう道徳的な悪という非難にさらされないものから重要な歳入を引き出しうるならば、それは大歓迎です。」
アヘン問題はロンドンの商人の直接的な利害に大きな影響を与えないというのは確かであっただろう。上海や香港の商人にとっても、中国国内産の廉価なアヘンが出回りだした関係でアヘンはそれほど儲かる商品ではなくなりつつあった40)。石井摩耶子の研究によれば、ジャーディン・マセソン商会の資産勘定に占めるアヘンの割合は、1850年に14.4%、1860年に14.3%であったのが、1870年には0.8%と激減している41)。しかし、それでもなお、ヒューの文章の後半部分は、もしアヘン貿易をやめたらインド政府の歳入はどうなるのだ、ということを婉曲な恫喝とも思える書き方で書いている。
こうしたヒューの態度は、次第に宣教師たちとの乖離を生み出していったようである。宣教師のバークレイとギブソン(J. C.Gibson)は、ヒューについて「何年にもわたって国中で行われていた反アヘン運動にまったくと言っていいほど参加しなかった。そのことは容易に誤解を招き、しばしば氏に対する非難の原因となった」と述べている。この文章はさらに、「マセソン氏は、決してアヘンを取り扱わなかったし、その商売から1銭も儲けなかった」という弁護論に続くのだが、このような苦しい弁明が書かれねばならなかったこと自体、アヘン問題に関するヒューの曖昧な態度、宣教師の主張との乖離を証言している42)。
勤勉、規律、節制などの道徳が経済的な成功をもたらし、経済的な成功が道徳的な高さを表すという経済と道徳との予定調和。そうした信念が、ヴィクトリア期のブリテンの拡張を支えるエートスであった。しかし、主観的な予定調和も、客観的には多くの矛盾をはらまざるをえなかった。アヘン問題に対する、マセソン一族の中での対応の違い、宣教師との意見の相違はそうした矛盾の一つの露頭とみなすことができよう。そして、矛盾が深ければ深いほど、むしろ自己拡張への意欲は強められ、現地の社会との葛藤の中で新たな矛盾が生じていくことになるのである。
2.
ミッションと東アジア世界の遭遇
1.二つの文明の衝突
第2次アヘン戦争の結果結ばれた天津条約(1858年)、さらに北京条約(1860年)は、外国人宣教師の布教権、さらに教会の土地・家屋取得の自由を認めることで、ミッションの活動範囲を大きく拡大するとともに、中国人の中での仇教運動=反キリスト教運動も活発化させた。コーエン(P. A. Cohen)の指摘するように、「宣教師たちが中国人を迷信深いとみなす一方、中国人は宣教師たちの信仰に対して深い懐疑の念を抱いていた。互いに相手を理解しがたいものとみなし、相手を文明の秩序のより低い段階に位置するものと感じていた」のであり、1860年代にいたって中華文明と西洋近代文明の衝突が本格化することになった43) 。
どのようなミッションが中国に侵入しつつあったのか。ここでは中国人受洗者数を基準として影響力を測ることにすると、プロテスタント系ミッションは61団体のうち、1905年の時点で1万人以上の受洗者を獲得していたのは6団体、上位から順に、合衆国長老教会海外宣教委員会(Board of Foreign Missions of the Presbyterian Church in theU.S.A)、 イングランド国教会伝道協会(Church of England Missionary Society)、メソジスト主教派宣教会(Methodist Episcopal Mission)、ロンドン伝道協会 (London Missionary Society)、イングランド長老教会、中国内地宣教会(China Inland Mission)となる。1807年に活動を始めたロンドン伝道協会を別とすれば、ほとんどの団体が1840年代に活動をはじめている44)。
イングランド長老教会は、この6団体の中で外国人宣教師の少なさに比して中国人牧師や受洗者の数が多いという特徴があった。同教会の『海外宣教百年史』では、中国人による「自治(self-government)、自養 (self-support)、自伝 (self-propagation)」という目標を掲げて中国人自身の教会を形成することに力を注いだからであると説明している45)。ただし、実際には現地住民による長老中会が組織された後も、宣教師会議が実質的権限を握り続け、「自治、自養、自伝」という原則は容易に実質化されなかったという問題が指摘されている46)。
地域としては、他の主要な宣教会が中国全土に進出しようとしたのに対して、イングランド長老教会は商業上のブリテンの影響圏とも言える中国南部に活動の範囲を限定した。まず福建省の廈門と広東省の汕頭を拠点として定め、天津条約に基づき台湾府(台南)、打狗(高雄)など台湾の諸港が相次いで開港されると、1865年には医師マックスエル(J. K. Maxwell)を最初の宣教師として高雄に派遣した。日本で明治維新が成立したのと同じ1868年、この台湾で「樟脳事件」と称される事件が起こった。宣教活動の初期の段階で起こったこの事件は、ミッションと中国人の確執のあり方を典型的に示している。
セルロイドの原材料である樟脳は台湾の特産物として重要な商品となっていた。1868年、台湾府の道台(知事)が樟脳の専売制度を定め、ブリテンの商人の樟脳を没収。府当局とブリテンの商人の対立が明確化し、キリスト教徒が井戸に毒を放とうとしているという噂も広がる中で、民衆がローマ・カトリックとイングランド長老教会の会堂を破壊、官府もこれを助長して長老教会の伝道師高長を獄に監禁、同じく伝道師である荘清風は群衆により殺された。マックスエルは副領事と共に高長の釈放を申し入れたが拒絶され、結局、代理領事の指示で軍艦が台南の安平城を占領することにより、樟脳専売制の廃止、会堂破壊への賠償、宣教師の島内布教および居住の自由を認めせさることになった47)。
「樟脳事件」は、商業上の利益と、宣教上の便宜と、武力による威嚇が3位一体となった砲艦政策の典型とも言える事件である。事件が1段落した段階で、ヒューの兄ドナルドは本国の外務大臣クラレンドン卿(the Earl of Clarendon)あてに海外宣教委員会の一員として書簡を送付している。その中で、荘清風の死について「石打ちにより殺されたあとで、心臓が切り裂かれ、殺人者たちのうちもっとも野蛮なものによって食べられた」と述べている48)。この報告が事実であるのかどうかは確かめようがない。それよりも重要なことは、こうした発言がどのような機能を果たすことを期待されていたのか、ということである。
領事による砲艦出動の要請は、クラレンドン卿により軽率で許し難い行為として非難された。ブリテン政府にすれば、フランスやドイツとの危ういバランス・オブ・パワーの上で中国分割を牽制しあっている以上、他の列強を刺激する行動は厳に慎まねばならなかったのである。ドナルドの手紙は、これに対して、「賢明で力強い領事の行為」は「ミッションの大義にとってばかりでなく、平和と秩序のために」有益な結果をもたらしたと擁護するために書かれたものだった49)。「食人」の描写は、こうした意図に適合的なものとして必要とされたと考えられる。ブリテンにおいて「食人」は、「野蛮」を象徴する記号としての長い歴史を持っているからである50)。「石打ち」により殺されたという記述も、同様の象徴性を備えている。キリスト教の最初の殉教者ステファノは石打ちにより殺されているからである。かくして、「殉教者」の美しい精神との対比で「異教徒」の「野蛮」が浮かび上がり、砲艦政策も「文明化の使命」を果たすための手段として正当化されるのである。
「大英帝国のアジア・イメージ」について論じた東山雅博は、1850年代の中国イメージが必ずしも否定的なものではなかったのに対して、60年代になると中国人への軽蔑、敵対心を顕わにする主張が支配的になったことを明らかにしている51)。重要なことは、この変化が自然と生じたのではなく、中国人とのコンフリクトが増大する中でブリテン人の行動を正当化するために必要とされたということである。他方、中国人読書人層の側からすれば、砲艦政策自体が十分に「野蛮」な所為であった。もともと明末以来の反キリスト教思想の長い伝統がある上に、アヘン貿易と一体となったミッションの侵入、外部の政治勢力への依存はミッションへの敵対意識を強化するのに十分すぎるほどの条件を備えていた。
中国と西洋との文明の衝突は、中国の側の敗北に終わった。世紀末の戊戌変法にいたる歴史のプロセスがそのことを示している。台湾に即していえば、合衆国の元廈門領事リゼンドル(C.W. LeGendre)が青写真を描いた日本の台湾出兵(1874年)、清仏戦争のさなかのフランスによる台湾北部占領(1885年)などにより地政的な重要性が再認識され、劉銘伝により土地調査事業、税制改革、鉄道の敷設などが進められた。資本主義世界システムへの適応を余儀なくされたわけである。日清戦争における東方の小国日本への敗北は、逆説的な形で西洋近代文明受容の不可避性を明確にし、こうしたプロセスを加速することになった。
1887年のこと、ヒュー・マセソンは、文明世界への中国の編入を自画自賛して次のように書いている 52)。
「商業の世界に中国が開港したこと、国家の防衛と物質的資源の開発のために西洋思想を大幅に採用したことは、近代という時代におけるもっとも顕著で興味深い変化を象徴している。また、中国の朝廷が、すべての官吏に対してキリスト教の宣教師と改宗者の保護を命じる法律を出したことは、さらに注目に値すべきことであり、神への深い感謝を要求している」
1898年のヒュー・マセソンの没時には、廈門、汕頭などの長老中会を構成する中国人が感謝の念に満ちた弔辞を寄せている53)。そのことにより、中国人自身の発言として西洋近代文明の勝利、それも単に物質面ばかりでなく精神面における勝利が追認されることになったのである。
2.ブリテンと近代日本
1895年、下関講和条約の締結過程で伊藤博文首相は、台湾を領有する方針を定めた。1870年代以降の帝国主義化の時代において、欧米列強に並ぶ国際的な地位を確保すると共に、戦争の結果を国民統合に利用するためには、賠償金ばかりでなく領土をえることが必要だったのである。そして、欧米列強の反発を買う度合いがもっとも少ないと考えられたのが台湾だった。事実、3国干渉により遼東半島は返還することになったにしても、台湾領有については列強の承認をえることができた。しかも、欧米列強に押しつけられたのと同様の不平等条約を中国に押しつけることにも成功した。近代日本はようやく「文明国」の仲間入りを果たしたのである54)。
ただし、台湾の領有は実は微妙な外交バランスのもとで実現されたものだった。日本の台湾領有への意思が明らかになるとブリテンで反発が生じていた。1895年1月には、ジャーディン・マセソン商会の影響下にあるロンドンのシンジケートが台湾を中国から購入しようとする動きを見せ、同年3月には海軍士官が台湾海峡の自由な航行の確保のために、ブリテンが澎湖島を領有すべきだという議論を提起した55)。中国側全権李鴻章も3月24日の会見において、「貴国若シ台湾ヲ占領セラルルナラハ英国ハ黙過セサラムカ如何」とブリテンの意向を持ち出して日本側を牽制している56)。最終的には、通商特権条項のように欧米の商人にとって有利な内容を挿入することで、日本の台湾領有は「国際的」に認知されることになった。しかし、列強間の協調による中国不分割の体制を崩すこと、しかも国際的な「成り上がりもの」である日本の手でそれを行わせることには大きな躊躇が存在したのである。
講和条約締結の準備が進められていたさなかの95年3月4日、『ウエストミンスター・ガゼット』に次のような伊藤博文首相へのインタビュー記事が載せられている57)。
「多くの冒険の末に、3人(5人の誤り―引用者注)はロンドンに着いた。そこで、彼らは、コモン・センスを備えたキリスト教的人物の世話になるという幸運に恵まれた。その人は、彼らの逃亡を援助した会社のメンバーであった。ヒュー・マセソンである。今日の日本は、ヒュー・マセソンの相談と世話に少なからぬものを負っている。『はい、私はマセソン・ボーイズの一人でした』。先日、日本の首相は私に語ってくれた。『私は多くのものを彼に負っています。』」
伊藤は、このインタビューの中で、交渉相手である中国政府の非文明的な性格、たとえば責任の所在の曖昧さについて不平を漏らすとともに、李鴻章は「私の西洋に対するすべての知識と、私が日本で行ってきたすべての改革について知識を得たがっていた」と誇らしげに語っている。
この記事は、ブリテン・中国関係とはおよそ対照的な、ブリテン・日本関係を象徴している。ヒュー・マセソンは、中国との関わりという点では、貿易と宗教の面における葛藤に勝利して影響力を浸透させていく役割を担った。日本との関わりでは、むしろ資本主義化としての文明化の援助者として立ち現れることになる。日露戦争勃発時のこと、伊藤博文は「文明世界の同情なるものは、国家の生存上就中戦争の際に於て非常に有力なる無形的後援なるが故に、我が国民は此同情に背からざるの覚悟なかるべからず」と述べている58)。日清戦争直前の日英通商航海条約(1894年)、日英同盟(1902年)の締結なくして、帝国主義国家としての日本の覇権がありえなかったことを想起すれば、「文明世界の同情」に依存するという伊藤の発言は文字通りの切実さを備えたものとして読める。そして、「文明世界の同情」を示す一つの典型例として、ヒュー・マセソンとの関係が存在するのである。
記事で語られている「冒険」とは、1863(文久3)年5月に、当時の長州藩士伊藤俊輔(博文)、志道聞多(井上馨)、野村弥吉、山尾庸三、遠藤謹助の5人が藩主の内許を受けてブリテンに密航したことを指している。尊王攘夷派の急先鋒であった長州藩が下関砲台から外国船砲撃を始めたのと同じ月のことである。一行5人は、横浜に英一番館を構えていたジャーディン・マセソン商会の船に乗り込み、同年9月にロンドンに着いた。マセソン商会の経営者としてホスト役となったのがヒュー・マセソンである。マセソンは、彼らにロンドン大学ユニバーシティ・カレッジでの学問の道を開くとともに、洗濯の仕方や靴の買い方など日常的なことまで世話をしたことを回想記に記している59)。
横浜を出帆するにあたり伊藤が詠んだ歌は「ますらをのはじをしのびてゆくたびは すめらみくにのためとこそしれ」というものだった60)。「洋夷」の国へ行くことは、やはり「はじ」なのであった。しかし、翌年3月には留学後1年を経ずして、長州藩の危機を救うために井上馨とともに帰国、藩論を開国に転換させて欧米諸国による長州藩攻撃を中止させるために奔走した。明治維新後の伊藤と井上の政治的経歴については、ここで改めて述べる必要はないだろう。ロンドンに残って学問を続けた者のうち、山尾は工部卿、野村は鉄道庁長官、遠藤は造幣局長として、いずれも上からの強力な「文明開化」を主導する役割を果たしたことを確認しておきたい。比喩的にではあるが、ブリテンへの密航体験を通して、彼らはいち早く西洋近代文明への「改宗者」になったと評することができよう。そして、彼らもまた「自分たちの社会の劣等者を今や彼らが『文明』とみなすものに向けて改宗させるための、もっとも熱心な宣教者」となるのである。
「改宗」のきっかけは、松沢弘陽の述べるような「西洋・中国複合経験」であった 61)。すなわち、西洋「探索」の過程で同時代の中国の悲惨を見聞し、従来の華夷秩序の念に代わり、欧米諸国を政治体制のモデルとみなすようになる体験である。横浜を出帆した伊藤らはまず上海に上陸してジャーディン・マセソン商会上海支店を訪ね、ロンドンへの船を斡旋してもらった。『伊藤博文伝』は、「一同先づ甲板上より港内を見渡し、各国の軍艦、汽船、帆船等の出入頻繁を極め、沿岸には輪奐たる洋館櫛比する等、その繁華の光景に一驚を喫した」と書き、井上がこの光景に接して早くも開国論者に転じたことを記している62)。条約港としての上海は、西洋文明の威力と魅力を誇示するのショー・ウインドウのような都市であるとともに、「絶え間ない戦乱のおびただしい難民が吸収能力をこえて流入した旧中国の暗黒面」を象徴する街でもあった63)。伊藤らもジャーディン・マセソン商会上海支店から、中国の「暗黒面」を展望したはずである。時期的には、太平天国の末期、ゴードン将軍(C.G. Gordon)が常勝軍を指揮して太平天国軍を圧倒しつつある時であった。
「改宗」の内容は、科学・技術と工業力としての西洋近代文明に方向付けられたものだった。ヒュー・マセソンの斡旋したロンドン大学ユニヴァーシテイ・カレッジは、非国教徒に開かれた大学として1828年に創設されたものであり、神学部をおかず自然科学や外国語など実用的な学問を中心としていた。オックスブリッジから「神のいない大学」として非難されたユニヴァーシティ・カレッジの性格について、伊藤らがどこまで自覚的であったのかは定かでない。確かなことは、西洋の科学・技術の導入を図ろうとしていた彼らの要求と、非国教徒の中流階級というヒュー・マセソンの社会的な背景とが適合的だったことである。そのことは、明治維新後の工部大学校創設の経緯にもよく表れている。
1872年7月、岩倉使節団の一員としてロンドンを訪れた伊藤は、ヒュー・マセソンに工部大学校の教官の人選を依頼、ヒューはグラスゴー大学の教授と相談の上、ヘンリー・ダイアー(H. Dyer)の派遣を斡旋した 64)。工部大輔として工部大学校の運営にあたった山尾庸三は、ダイアーとグラスゴー大学アンダーソン・カレッジの夜間学級の同窓生であった。両者の調和的な協力関係のもとで、工部大学校(のちに帝国大学工科大学)は革新的で質の高い技術教育機関となり、その輩出する人材が上からの急速な工業化を担っていくことになる。
科学・技術としての西洋近代文明の受容は、元長州藩留学生のイニシアティヴのもとでこのように「成功」裡に進められた。しかし、それでは、キリスト教については、どのような対応がとられたのだろうか。
コーエンは、キリスト教への対応について、中国では読書人層の反発が強固だったのに対して、日本では旧士族層の中に積極的なキリスト教受容者が存在したという特徴を指摘している65)。それ自体としては適切な評価だが、国家レベルでの政策に関連づけて見るならば、従来の道徳的・宗教的な秩序の混乱を引き起こすミッションの活動に対してほとんど無防備な形でさらされた中国と、キリスト教の浸透に対して有効な防波堤を築こうとした日本との対照こそが浮かび上がってくる。
そもそも幕末から明治初期にかけての留学生のうちで、西洋近代文明の富強の根源としてキリスト教に着目したのは、中村敬宇や森有礼など限られた人物たちだった。中村について言えば、彼の翻訳した『西国立志編(自助論)』の原著者スマイルズ(S. Smiles)はスコットランド人であり、長老教徒として自助 (self-help)、労働、禁欲といったエートスも神との関連の中で意味づけていた。しかし、明治の日本で同書がベストセラーとなった際には、もっぱら「出世」と「成功」の手引き書として読まれることになる66)。自然科学の世界も神の世界と無縁ではなく、『格物探源』(1878年)への序文で中村敬宇が書いているように、「宇宙万物ノ性質ヲ格シ、其ノ神奇巧妙ニ驚ク。其ノ皆偶然ニシテ成ルニ非ズシテ、必ズ一定ノ則有ルヲ知ル。因テ大主宰ノ神有ルヲ知リ…無量ノ智慧福祉有ルヲ知ル」という考え方が存在していた。この本の原著者ウィリアムソン (Alexander Williamson)は、ヒュー・マセンソンの斡旋によりロンドンで伊藤たちを自らの家に投宿させた人物である。
中村は、性急な「改宗者」とは対照的に、「東西文明に内在する一元的な道の支配」を信じて、儒教的な基盤を教養としながら、キリスト教を調和的に解釈していこうとしていた68)。しかし、こうした試みは、総じて明治日本において孤立的な模索であるにどどまった。同時代のブリテンでも進化論や社会主義思想の普及により脱キリスト教化が進みつつあったことや、ブリテンによる中国への侵入が「東西文明の調和」とはほど遠い事態を示していたという事情もそこには作用しているであろう。
しかし、それでは、一体何を基盤として、西洋近代文明の受容というプロジェクトへの「主体的」な参加を引き出すことができるのか。アンバランスで急激な西洋文明の導入は、日本でも宗教・道徳面での混乱を引き起こさざるをえなかった。それが文明化のプロセスへの反乱へと帰結してしまう可能性もあった。そうならないためには、同時代の上海やロンドンを見聞したことのない人々を含めて、文明の秩序へのマス・コンヴァージョン(集団改宗)が必要だった。こうした政治的な課題に応えるために生み出されたのが、キリスト教に代わる疑似宗教としての天皇制であり、この問題について特に自覚的だったのが伊藤博文だったように思われる。
自由民権運動が高揚していた1879年、明治天皇の侍講元田永孚は、性急な文明化のために社会の風俗が乱れて道徳的な混乱が生じていると訴える「教学大旨」を起草した。これに反論して、伊藤は「古今ノ非常ノ変革」に伴う「風俗ノ変」はやむをえないものだと述べた上で、「政談ノ徒」は「工芸技術百科ノ学」に誘うべきだと書いている69)。この段階では、復古的な天皇親政運動を目論む元田に対して、新たに「国教」を建てることは不可であると説いていたのだが、元田らの政治的な影響力が薄れた段階で「国教」類似のものを創出する方向に転じた。よく知られているように、1887年の帝国憲法草案審議の冒頭、伊藤は議長として西洋では宗教が国家の「機軸」として人心を統1し、憲政を支えてきたことを強調し、これに対して日本では頼るべき既成宗教がなく、仏教は「衰替」し、神道は「宗教トシテ人心ヲ帰向セシムルノ力ニ乏シ」い以上、「機軸」とすべきは「独リ皇室アルノミ」と述べている70)。政治体制としてはドイツ流の君権主義を模倣したこととあわせて、西洋近代文明受容に際しての取捨選択の原理がここにはよく表れている。「機軸」は必要だったが、キリスト教は排除されねばならなかったのである。
明治憲法と教育勅語により明確な輪郭を与えられた近代天皇制の成立過程についてはこれまでにもたびたび論じられてきた。本稿で改めて確認しておきたいことは、天皇をめぐる意匠の復古的な装いにも関わらず、それは基本的に文明の秩序への適応として必要とされたということである。「万世1系」の「伝統」を虚構することでキリスト教への対立物という性格も明確にされたが、同時に、文明世界の「同情」を買うために疑似宗教的な性格は覆い隠された。「文明開化の先導者」としての天皇イメージは、富国強兵という文明化のプロジェクトに向けて民衆意識を動員する役割を期待されていた。そして、「文明」の「野蛮」に対する戦いとして宣伝された日清戦争の勝利、台湾という「戦利品」の獲得が「新興宗教」の「現世利益」の周知徹底に役立った。しかし、本質的に西洋近代文明への防衛的な対応として形成されたこの疑似宗教は、キリスト教とは異なり、植民地の住民をアグレッシブに従属化させていく手段としては非適合的な性格を持っていた。そこに近代日本の植民地主義独特の困難が生じてくることになるのである。
3.台湾支配と宣教師たち
下関講和条約により、それまで清朝の「周縁」的な位置を占めていた台湾は、新興の帝国日本の「周縁」へと編成替えされることになった。欧米列強、中国、日本という3つどもえの確執が、妥協点として台湾割譲へと帰結したのである。それは台湾の住民の関知しないところでなされた決定だったが、政治的な自己決定権は文明の秩序への適応を果たした「国民」にのみ認められるという考えが、頭越しの決定を正当化する役割を果たした。伊藤博文は、「日清戦後の経営」と題する貴族院での演説で、台湾の住民の多くは「広東州福州近傍の悪漢の徒」である上に、「生蕃」も住む「半は未開」のところであるから「十分なる兵力も要し、且又た平素の警察取締等に付いても、迚も内地の比ではなからう」と述べている71)。軍隊と警察による専制的な統治も「半は未開」の人々に対してはやむをえない選択肢として正当化されたのである。あるいは、その正当化のために「未開」性を強調する必要性があったのであると述べた方が正確かもしれない。
ただし、「文明―未開」の論理は両刃の刃だった。統治者である「日本人」は、「文明」の民であるのかという問いを免れなかったからである。後藤新平は、1898年に台湾総督府の民政局長に就任した当時を顧みて、「新版図統治の困難を経験せる諸外国は、皆我帝国が夫のスパルタの如く、戦争の勝利者にして、統治の失敗者たるべきを予想せざるはなかりき」と述べている。特に日本には頼るべき宗教が「皆無」である以上、キリスト教の布教と植民地主義を一体のものとみなす欧米人が日本の植民地統治の成功を疑ったとしても仕方はないと記している72)。確かに文明的な諸価値の中でキリスト教が重要な構成要素とみなされていた以上、この点で日本はどこまでも「文明国」になりきれないのだった。そして、日本の植民地統治への懐疑的な視線を、台湾島の内部で代表していたのが宣教師たちである。
日本による領有当時、台湾北部ではカナダ長老教会、南部ではイングランド長老教会が活動を始めていた。当時カナダはブリテンの自治領(Dominion)の一つであり、特にスコットランドからの移民が多かった。カナダ長老教会の最初の宣教師マカイ (J.L.Mackay)は、ヒュー・マセソンと同様に、父の世代にハイランド「清掃」のために移民を強いられたハイランダーである。1920年代後半までは、台湾で活動を展開したプロテスタント系ミッションはこの2つのスコットランド系の組織だけだった。
宣教師たちは、日本の植民地支配にどのように対応したのか。ブリテンの「周縁」的地域の出自であること、しかも、ブリテンの政治的影響力が直接的には及びにくい日本の植民地で活動する状況に追い込まれたことは、一般のミッションに比べて政治的に反体制的な言論を生み出す土壌となった。しかし、国民国家としてのブリテンという単位に対しては冷淡でも、大英帝国のプロジェクトについては共鳴するのがヴィクトリア期のスコットランド人だった。その中で意識的・無意識的に身に付けた「帝国意識」が政治的な見解のあり方を左右する場合もあったと考えられる。以下においては、グラスゴー出身の3人の宣教師、バークレイ、キャンプベル(W. Campbell)、ムーディー (C.N. Moody)に着目しながら、イングランド長老教会と日本の台湾支配との関わりを検討していくことにしよう。
(1)領有当時の台湾とバークレイ
バークレイは、台湾領有のプロセスの単なる観察者ではなく、アクターでもあった。1895年10月、台北から進軍してきた日本軍が台南を占領しようとした際に、台南の一部住民の意をうけたバークレイがファーガソン(D. Ferguson)とともに第二師団長乃木希典と折衝して「無血入城」を助けたことは有名な逸話である。この仲介行為は日本軍にとってまことに都合のよいものであった。しかし、彼は日本側に一方的に肩入れしようとしていたわけではなかった。たとえば、1895年度の活動を顧みた文章で、下関講和条約の無効を宣言した「台湾民主国」の企図について共感的に叙述した上で、「自らの意思と関わりなく、古い歴史を持つ中華帝国から引き離された人々に同情せざるをえない。彼らは、自ら誇りに思っている伝統からも引き離されたのであり、軽蔑された帝国の一部を構成することになってしまったのである」と書いている。しかし、気を取り直したようにして次のような文章も付け加えている73)。
「この変化は、宣教師たちの生活状況を改善するであろうし、通信手段の発展は大いに私たちの活動を助けると予想される。中国の官僚制や、集団としての読書人階層の破壊は、儒教の権威の失墜などとともに私たちの途上にある多くの障碍を除去するであろう。…いずれにしても、これだけ旧来の秩序が揺さぶられている以上、今までキリスト教を真剣な考慮の対象とすることを妨げてきた、うっとおしく冷淡な抵抗は将来減少していくことだろう。日本政府による安息日の遵守など、日本におけるキリスト教のよりよい地位は、私たちの仕事を助ける方向に向かうように思われる。」
このように否定と肯定の間を揺れるバークレイの評価は、ブリテン、中国、日本という三者関係の複雑に入り組んだ構造に対応している。たとえ西洋文明の侵入に対して根強い抵抗を展開したとしても、中国が一つの文明世界を構築していたことは明らかであった。したがって、こうしたコンテクストでは、独自の文明を生み出したわけでもない「軽蔑された帝国」に中国人が支配されることは同情と共感に値することだった。しかし、読書人層を担い手とする中華文明は、やはり宣教師にとってはキリスト教の布教の障碍だった。この点では、いち早く西洋近代文明に「改宗」した日本の支配体制の方がはるかに布教に適合的だったのである。たとえば、日本では1876年に官庁における日曜日休日制が施行された。それが真に「安息日」という意識を伴うものだったのかということは別としても、形式的な意味での西洋化が評価の対象となったとしても不思議ではない。
日本政府の支配はキリスト教の布教事業を助けるだろうというバークレイの見通しは、誤りではなかった。『海外宣教百年史』は、日本による領有以前の台湾の状況として「儒教的な読書人層の影響は反動的であり、排外的であった。自らの教養に対して誇りがあるために彼らは無知な者を軽蔑した。そして、教会関係者の中に学者はほとんどいなかった」と記している74)。日本の台湾領有に伴う旧来の秩序との切断は、教会に避難所的機能を求める「信者」の増加を生み出すと共に、これまでもっぱらキリスト教に敵対的だった読書人層を教会に引きつける役割を果たした。宣教師の主要な関心が洗礼者の数にあった以上、これは進歩であった。
エドワード・バンド (E. Band)は、バークレイの評伝で「1843年の出来事を喜んで説明するスコットランドの神学者として、教会と国家に割りあてられた権威の領域の違い、精神的なものと1時的なものの違いについてバークレイは明確な見解を持っていた。したがって、精神的な自由と抵触しないかぎり、すべてにわたって『現にある新しい権力』に従順であることを促していた」と評している75)。1843年のスコットランドでの大分裂は、国家が精神の自由の領域を侵すことへのプロテストとして行われたものだった。その同じ論理が、既存の政治的秩序への適応を促す原理ともなることが明確に示されている。ただし、バンドの文章は、この評伝が書かれた1935年という時期と関連づけて読まれねばならない。当時、キリスト教は日本の国体に反すると攻撃されていたため、総督府との歴史的な友好関係を強調しようとする意図が同書に浸透しているからである。
実際に友好的関係ばかりが存在したわけではもとよりない。総督府へのプロテストが行われたこともあった。特に問題にされたのは、1896年6月の雲林地方における住民虐殺事件だった。
日本軍は台湾領有の過程で大きな抵抗に出会い、なりふりかまわぬ鎮圧がさらに多くの住民を「土匪」の側に追いやり、それが非戦闘員を含めた殺戮という対応を生み出すという悪循環の中におかれていた。特に第2代桂太郎総督の時代(1896年6月―10月)、台湾中部雲林地方は抗日武装蜂起勢力に席巻されるにいたった。この時の武装蜂起の首領である簡義は、製糖業などを営む雲林地方の第1の土豪であり、「天運」という新しい元号を設けて「奉清征倭(清を奉じて倭を征す)」という旗を掲げて抵抗を展開していた76)。宣教師は、伝道師劉阿圭を通じて戦闘の模様についての情報を収集、香港の英字新聞に日本軍の行為を非難する記事を寄せた77)。 1896年7月18日付の『タイムズ』の記事には次のように書かれている 78)。
「ある宣教師が、台湾南部における日本人の虐殺行為について手紙を書いてきている。『私は、事実に基づかない発言は一切しないつもりである。共通の人間性 (common humanity)の名において、あなたが事の真相を世界中に知らしめるように祈っている』。彼によれば、日本人は中国人を抹殺しつつある。60以上の村が焼き払われ、何千もの人々が殺された。…別の村では、中国人たちが日本人兵士を迎えるために食事の準備をしていたにもかかわらず、突然虐殺が起こり、50名の中国人がその場で殺された。」
この宣教師はバークレイを指すと考えられる。同年7月19日の宣教師会議の記録によれば、バークレイが日本軍の残虐行為を非難するために領事あてに書いた手紙が東京駐在の公使に転送されたとあるからである79)。バークレイが宣教師会議を代表して書いた手紙は、「反乱軍を鎮圧するにあたり、日本軍は住民に対して非難に価する残虐な行為をしている」という書き出しではじまり、新聞記事と同様に日本軍が村々を焼き払ったことや、食事の準備をしてもてなそうとした住民までも殺したこと、ゲリラをかくまった以上住民も仲間であると弁明していることなどを記し、「住民たちが日本軍の行為をどのように評しているかということについては文章に記さない方がよいだろう」という言葉で結んでいる80)。新聞記事では曖昧でセンセーショナルな書き方となっているが、バークレイの領事宛書簡では、事件の起こった日付、日本軍の死傷者数など雲林支庁長松村雄之助の残した記録とほぼ一致しており、かなり正確な情報を得ていたと考えられる81)。
香港の英字新聞の記事がきっかけとなって、雲林事件は国際問題に発展しかねない様相を見せた。7月23日には加藤高明駐英公使が西園寺公望外務大臣宛に新聞報道に対して反論する材料を提供するように希望、しかし、駐英公使と本国政府と台湾総督府の間で書状が行きう中でむしろ「事実無根ニアラサルコト」が判明した82)。徳富蘇峰の執筆した『公爵桂太郎伝』では、この間の経緯について、日本軍が「土匪」殲滅のために「玉石共に焚くの殺戮を敢てした」ことに対して、宣教師が「日本人は植民政治を施すの能力を有せす。看よ台湾の状態は、野蛮に均しき処置に出つるに非すや」と考えて「日本の不信用を世界に暴露」したと書いている。結局、責任者の処罰、天皇の名による救恤金の支給、『タイムス』に台湾総督府の名でキリスト教徒を保護し、「文明の政治」を引くつもりであるといった記事を掲載することで外交問題化することは免れた83)。
雲林事件よりも前には、日清戦争のさなか旅順での住民虐殺事件を同地の宣教師に告発されるということがあった。朝鮮での3・1独立運動、そして1937年の「南京事件」、いずれの場合も日本人によるアジア諸民族に対する非人道的な行為が欧米人宣教師を窓口として英語圏に筒抜けになっていた。ただし、「南京事件」の時期とは対照的に、条約改正の途上にあった1896年という時点では、「日本の不信用」が暴露されることは外交政策上も重要な失点とみなされた。「文明世界の同情」は、帝国日本の存立の根幹に関わることがらだったからである。したがって、宣教師を懐柔し、日本政府・台湾総督府にとって不都合なことを外に向けて発信させないようにすることが必要だった。他方、宣教師にしてみれば、あまりにも非人道的な行為は見逃せないにしても、政治的な支配の問題はあくまでも副次的なことがらだった。多数の宣教師が殺された義和団事件に際して日本軍が大量の兵隊を出動させたことは、清朝の支配下ではなく日本の支配下にあることの「幸運」を感じさせもした。抗日武装蜂起の鎮圧を一通り終えた段階で、友好関係を築く余地は十分に残されていたのである。
(2)児玉―後藤体制とキャンプベル
総督府とミッションの友好関係の樹立に際して、キー・パーソンとなったのは宣教師の中の最長老格であるキャンプベルである。バークレイが宗教と政治の分離という原則を維持しようとしたのに対して、むしろ積極的に政治に関わり、特に児玉―後藤体制の期間に台湾総督府擁護論を展開した。
1901年6月、香港の『チャイナ・メイル』に、後藤新平の名前を挙げて砂糖や樟脳の専売政策など台湾総督府の施政を非難する一連の記事が掲載された。キャンプベルは、専売制度は確かに一部の欧米人商人の不利益になるにしても、後藤は愛国者として当然のことをしているだけであり、「戦利品(the fortune of war)」の扱いとしては驚くべきことではないと反論している。また、記事の執筆者が商業会議所を通してブリテン政府に圧力をかけようと主張したことに対しては、「私たちのミッションの委員長だった故ヒュー・マセソン氏のように、そうした要職に就く人々は同時に名誉ある人々であり、『共存共栄(Live and Let-live)』の原理の重要さを認識していた」と説いている。確かに、下関条約の通商特権は最恵国条項によりブリテンにも適用され、ジャーディン・マセソン商会はこの条項を利用して、1895年に上海に綿織物工場を創設している85)。その限りでは、「共存共栄」であった。ブリテンの商人も恩恵を受けたのだから、専売制度の恩恵を日本に認めてやってもよいではないか、ということになる。もっともこれだけでは台湾の住民の福利を無視していることになるためだろうか、後藤の着任以来、道路や鉄道の建設、郵便・電話や警察の整備、学校・病院の設置に多くの資金が注がれたことを付け加え、「局外者は台湾の行政に対してもっと同情的な姿勢を示すべきである」と結論づけている86)。
樟脳をめぐるトラブルは、1868年の「樟脳事件」を思い起こさせる。1885年には劉銘伝が再び専売制を敷き、ブリテンの商人がこれを不当として総理衙に控告して90年に廃止されたという経緯がある。それだけ利害対立の鮮明なことがらについて、あえて総督府の政策を擁護したことの意味は小さくないだろう。
キャンプベルは、ミッションの活動に直接的に関係する教育問題についても総督府寄りの発言をしている。1900年代には、教会の経営する初等学校と、総督府が現地住民向けに設立した公学校とが競合状態にあり、総督府は公学校に通うように指導していた。キリスト教徒は、教員として勤めるにしても、子どもを学校にやるにしても、選択を迫られていたのである。キャンプベルは、公学校では「信教の自由」を守っており仏教も現地住民の宗教も教育内容から排除していること、日本語を覚えさえすれば台湾の住民も官吏としての職をえられることをあげて、公学校を支持している。また、いまだに反乱が絶えない以上、日本本土で日本人が享受している権利を台湾の住民に及ぼそうとしないことも驚くにはあたらないと述べ、「台湾の住民の内で勤勉で知性的で影響力のある人々は、バターは日本の側に塗られていることに気づきはじめている」と論じている87)。
キャンプベルの主張するように、1900年代に息子を公学校にやり、さらに日本へと留学させた人々には、読書人層でキリスト教に「改宗」したものが少なからず含まれていた88)。東京という新たな「中心」に向けての「改宗者」の旅である。文明化の威力と魅力が台湾の一部の人々をもとらえ始めていたのである。しかし、聖書の翻訳を柱としながら、現地語のローマ字表記を用いて広く大衆に福音を伝えていくという方法がイングランド長老教会の原則だった以上、日本語を教授用語とする公学校を支持することは、原則からの大きな逸脱だったはずである。公学校が「信教の自由」を尊重する機関であるという見解については、天皇制の疑似宗教的な性格、学校教育を通じた教化の体制への認識を欠いていたと評せざるをえない。1930年代には長老教会の経営する中学校の神社参拝問題という形で、この見通しの甘さが露見することになる。
キャンプベルが台湾総督府のスポークスマンと見まがうばかりの台湾統治擁護論を展開するにあたっては、総督府の側での懐柔策という要因も作用していただろう。たとえば、1900年にはミッション経営の盲学校が財政難に陥っていたために、児玉源太郎総督を訪問、盲学校の公立化に好意的な意見を引き出すとともに「援助が必要な時には、どんなことでもミッションの力になる」という言葉をかけてもらっている89)。実際、盲学校は同年中に総督府に移管され、日本人のキリスト教徒が校長に任命されることになった。しかし、こうした個別的な事情には還元できない要因、「大英帝国」の一員として意識的・無意識的に身に付けている「文明」の秩序への信頼感が、日本による台湾統治の評価に影響を与えたという側面も存在するだろう。
(3)1910年前後とムーディー
キャンプベルとは対照的な方向で、ミッションと植民地統治の関係を考えたのがムーディーである。1895年に台湾に着任したムーディーは、キャンプベルよりも25歳若い。台湾に来る前は、グラスゴーのスラムで宣教活動に携わっていた。1880年代以降、グラスゴーでは社会問題に対する教会の態度が顕著に変化し、預言者的な伝統に立って社会正義の必要を訴える声が大きくなりつつあった90)。ムーディーは、一方でこうした本国の思潮に影響されながら、他方で、台湾での体験を通して本国における教会のあり方を批判的に再考していく作業を行うことになった。1907年と1911年に出版した図書には、そうした彼の思考の軌跡がよく表れている。対岸における革命運動に鼓舞されて、領有当初よりも組織的な抗日蜂起が起きてくる直前の時期であった。
ムーディーは、グラスゴーのスラムでの試みと同じように、台湾でも乞食のようなボロ服を着て、西洋風の建物ではなく一般の住民の家に住み、どんな人が来ても「私たち台湾人は…」と語りかたという91)。それ自体は一つの宣教戦略に過ぎないとも言える。しかし、そうした生活を通して、台湾の人々の暮らしと内面について鋭い洞察を身に付けたと思われる文章が彼の著書には随所に表れている。
まず注目に値するのは、植民地支配に対して次のような評価を下していることである 92)。
「私は、できるかぎりすべての人々が自分自身を治めるに任せた方がよいと思う。異民族統治をその場しのぎの必要悪よりもよいものとみなすには、あまりにも多くシンガポールにおける正義の運用の誤りを見てしまい、台湾においてあまりにもたくさんの無実な人々が苦しむのを見聞してしまったからである。」
ムーディーは、植民地支配は肯定的に評価したとしても「必要悪」に過ぎない、大英帝国も大日本帝国もこの点で変わりはないと述べているのである。こうした評価は、どのような見聞に支えられているのだろうか。
キャンプベルは後藤新平が巨費を投じて道路を整備したことをたたえていた。これに対して、ムーディーは、「日本人は住民を使役して道を広げ、まっすぐにしようとしている。…新たな大通りに土地を持つ中国人は、2階を付け加えて住む場所を見いださねばならなかった」というように、たえず住民の生活との関わりで具体的に何が起こっているのかを見極めようとしている93)。そもそも視点の置き所が違うのである。キャンプベルの視点がいわば空高くからのものだとすれば、ムーディーのそれは地を這う人々のものである。
ムーディーは、さらに地を這う視点から「西洋人」が「中国人」を見る目を問題とし、「西洋人」のステレオ・タイプなイメージを批判した。
ムーディーは言う。「すべての国民はそれぞれの長所と欠点を持っている」。日本人は敏捷で誇り高く、怒りやすい。ただし、メランコリックなところがある。中国人はゆっくりとしているが、穏和で信頼でき、ユーモアのセンスに富んでいる。また、中国人は、相対的に非同情的だが、ホスピタリティーにあふれており、自分が苦労して稼いだお金を寛大にふるまう。自分自身の痛みに対して忍耐強く、他者の苦しみに対して無関心になりがちなところがある。「ただし、不正義な行為を楽しむという悪癖からは自由である。ブリテンの子どもたちのようにお互いに相手をからかい、いじめあうことに喜びを見いだすような子どもを見いだすことはできない」94)。
ムーディーは、ここから進んで「国民性」という民族の類型論そのものを批判するようにもなる。「西洋人の目は、極端なものを取りあげ、類型化する」。だから、すべての中国人は同じように黄色で、鼻が低く、アーモンド色の目をしていると思ってしまう。その同じ目の中にもさまざまな影と形があることに気づかない。しかしよく見てみれば、「ある人はまさに中国人的という顔立ちをしており、別の人はローマ人のような鼻を持ち、3人目はギリシャ人のような顔立ちであり、4人目はまさにスコットランド人」である。性格についても同様に、さまざまなコントラストが存在している95)。
自ら「国民性」の類型論を展開しながら、他方でステレオタイプを批判しているのは矛盾とも思える。しかし、必ずしもそうとは言い切れない。前半の類型論は、「数十年前まで台湾は野蛮な国であり、今になってようやく文明化しつつあるという固定観念に反発する」という目的で行われているからである96)。確かに、彼の論は、ある民族に肯定的な評価を、他の民族に否定的な評価をもっぱら押しつけるという単純化の弊を免れている。さらに注目に値するのは、ことがらの両面性を見ることで、西洋近代において文明的な価値とされたものから比較的自由に人間と社会を評価していることである。彼の描く中国人像は、勤勉、規律、節制という「資本主義のエートス」とは無縁である。それにもかかわらず、魅力的で肯定的なものとして理解されている。他者の苦しみへの共感も、しばしば他者の苦しみを楽しむという不正義と裏腹なものであることを見落としていない。植民地主義を正当化する強力なロジックが「文明―野蛮」という尺度に基づく人々の序列化である以上、ステレオタイプな民族別類型化(racial categorisation)への批判は同時に植民地主義への批判ともなりうるのである。
西洋近代文明を相対化するこうした視点から、ムーディーはさらに自分たちが広めようとしている教会のあり方の反省へと向かう。教会での礼拝の際に厳粛さを保つことは、西洋人にとってはごく自然で当然なことと意識されている。しかし、台湾の教会ではまったくそうではない。「賛美歌を歌っている最中に郵便局員が入ってきて牧師に手紙を渡し、両方の肩からバケツを提げた異教徒が祭壇を通り過ぎ、子どもたちははしゃぎまわり、ふざけあう」97)。こうした情景は、礼拝にとって厳粛さは本当に不可欠なのかという問いへと向かう。そして、実はスコットランドでも18世紀には似たような状況が生じていたことに気づき、さらに、ユダヤ教やキリスト教の初代教会における礼拝のあり方のとらえ直しへと向かっていく。病気のためにグラスゴーに戻った後、ムーディーは、こうした観点から初代教会の研究を行うことになる。ここでその詳細に立ち入ることはできないが、西洋文明が体現しているとされてきた諸価値とキリスト教をいったん引き離し、改めて西洋世界が近代化の中で抑圧してきたものとの関連で福音の意味を再考しようとするものであった。
しかし、西洋の教会のあり方へのこうした自己批判的な態度は、つきつめれば宣教活動の否定へと行き着きかねない性格を持っていた。実際、ムーディーは、「ラッパの音よ、すべての岸の鳴り響け、異教徒をこれ以上涙にくれさせるな」という子どもの頃に歌った賛美歌の歌詞を思い起こしながら、「異教徒は涙にくれてなどいない。それぞれの単調な仕方で十分に幸福なのである」と書いている98)。ムーディーの書いていることは当然のことなのだが、宣教師としてはもっとも直面しにくい事実であった。自分の存在意義を脅かされることだからである。したがって、キリストの福音は「偶像崇拝」という「暗闇」の中に輝く「光」であるというロジックや、現地の住民に教会の運営を任せてしまえばカトリック教会のように堕落してしまうかもしれないという懸念からムーディーもなかなか自由にはなれなかった。こうした点をとらえて、宣教師という立場ゆえの限界を指摘することはできる。しかし、キリスト教と自由貿易主義と文明的な諸価値を一体のものとして世界に広めることへの自信にあふれたヴィクトリア期のブリテンの思潮と比較するとき、重要な変化の萌しが見られることは確かであろう。
おわりに
文明化への圧力は、ブリテン、日本、中国・台湾という地域を越えて、「文明」の担い手にふさわしい人々と、その対極にある「非文明的」な人々を序列化しながら、多元的な「中心―周縁」構造を生み出していった。「中心」は「周縁」の人々を魅きつけ、「周縁」から「中心」への旅を生み出すことになる。ヒュー・マセソンは、スコットランドのハイランダーとしてのアイデンティティーを保ちながら、ブリテンの「中心」ロンドンへと赴いた。そのヒューが、攘夷のかけ声の中であえてロンドンにやってきた伊藤博文のホスト役となり、日清戦争以後は東アジア世界における「中心」として昇格した東京に台湾からの留学生が押し寄せた。「周縁」から「中心」への旅は、西洋近代文明への「改宗」の体験と不可分であり、「改宗」に消極的な人々や、それを拒否する人々は「野蛮」とみなされた。このような序列化の原理を伴いながらも、連鎖反応的な「改宗」を生み出すのに十分なほどの威力と魅力を文明の秩序が備えていたことをまず確認しておくべきだろう。
文明化という言葉には多様な意味合いが含まれてもいた。それは、資本主義的世界システムへの編入という事態を基底としながら、資本主義化を効果的に遂行するための科学・技術、規律、勤勉、節制という「資本主義のエートス」、そのエートスを支えるものとしての福音主義的な信仰などを曖昧に包み込んでいた。ヴィクトリア期のブリテンは、これらの要素を一体のものとして「中心」から「周縁」へと広めていくことへの自信に満ちあふれていた。近代日本は、そこからキリスト教をとり除き、天皇制という疑似宗教を忍び込ませるという作業を密かに行いながら、「文明化の使命」という点ではブリテンを模倣しようとした。いずれの場合も、「中心」から「周縁」への影響力の行使はしばしばあまりにも明白な暴力を伴なっていたために、西洋近代文明を受容する側では、その中に優れたものを認めれば認めるほど、トータルな拒絶もトータルな受容も困難な、ダブル・バインド的な状況におかれることになった。
もちろん、近代日本の歴史もこうしたダブル・バインド的状況から自由ではなかった。たとえば、徳富蘇峰は雲林事件に対する宣教師の反応を述べたくだりで、「裏面に於て、仮令ひ如何なる残忍の所為あるとも、表面、善美の名を用ひる」のが西洋人のやり方であると非難している99)。確かに「左手にアヘン、右手に聖書」という方式は蘇峰の指摘するような二枚舌的な性格を持っていた。キリスト教の美しい理念だけを取りあげて西洋文明の優秀さを強調する考え方は、欧米列強のパワー・ポリィティクスの前であまりにも現実離れした議論とみなさざるをえなかった。1870年代に熊本バンドのメンバーとしてキリスト教を受容し、ブリテン流の「平民主義」を説いた蘇峰が、日清戦争と3国干渉を主要な契機として「力」の論理の信奉者となったことも、ブリテンの側での矛盾に満ちた行動との関連で理解すべき部分があるだろう。
しかし、蘇峰のような人物におそらくよく理解されていないであろうこともあった。「左手にアヘン、右手に聖書」という方式が、ブリテン人の中で単に矛盾した要素の共存として受け取られていたのではなく、緊張感に満ちた葛藤を生み出していたことである。ヒュー・マセソンという一人の人物の中にも、彼と兄弟や宣教師との関係の中にも、このような葛藤が表れていた。キリスト教の何をその本質的なメッセージとして受け取り、他の文明的な諸価値との関連をどのように考えるかによって、対応も異なったものとなったのである。「残忍」の所業を隠蔽するために「美名」を利用する力と、「美名」を基準として「残忍」の所為の修正を促す動きが、ブリテン人の内部でせまぎあっていたと評することもできる。
同様の問題は、日本の台湾統治に対する宣教師の対応の多様性にも見いだすことができる。キャンプベルのように、たとえキリスト教という要素がとり除かれていたとしても、台湾総督府による文明化のプロセスに共感を寄せた者もいた。バークレイのように、宗教と政治を区別し、大筋においてキャンプベルと同様の立場に立ちながらも、非人道的な行為に関しては「共通の人間性(common humanity)」の名において告発する者もいた。ムーディーのように、「非文明的」とされる人々との出会いを通じて、文明的な諸価値とキリスト教との関係を再考し、植民地主義を正当化する民族別類型化を批判する者もいた。たとえ世代の差があるとはいえ、同じグラスゴーに育ち、同じ教会から派遣された宣教師の中でこれだけの違いが存在すること自体が注目に値する。本稿では、かりにこの3人の立場を時期と関連づけて論じたが、キャンプベル流の文明賛美論から、ムーディー流の文明懐疑論へと段階的に発展していくわけでは必ずしもない。ムーディーの論にしても、キリスト教自体から派生したものというよりは、台湾の人々との具体的な出逢いにおいて初めて可能になったものだった。この点において、日本軍の非人道的な行為に対する怒りにしても、文明的とされる諸価値への懐疑にしても、もともと台湾の人々のものであり、宣教師たちは不十分ながらそれを外の世界に向けて発信するためのメガホンのような役割を果たしたに過ぎないことも忘れてはならないであろう。
1910年代になると、台湾の人々自身の思想と行動が歴史の表舞台に表れてくることになる。抗日運動とミッションと台湾総督府という三つどもえの関係の中でどのように文明の秩序が危機に瀕し、変質を迫られていくのか。それを検証する作業は今後の課題として残されている。
注
1. ひろた・まさき「文化交流史研究の課題」(『文化交流史研究』創刊号、1997年)6頁、12頁。
2. 「中心―周縁」構造の空間的な重層性という観点については、平野健1郎「序―アジア地域における地域システムと国際関係」(平野健一郎編『講座現代アジア4 地域システムと国際関係』東京:東京大学出版会、1994年)を参照。
3. Keith Robbins, Nineteenth-century Britain: Integration and Diversity, (Oxford: Oxford University Press, 1995), Alexander Grant and Keith J. Stringer, Uniting the Kingdom?: The Making of British History, (London and New York: Routledge, 1995).
4. Edward Band, Barclay of Formosa, (Tokyo: Christian Literature Society, 1936), p.19.
5. G. M.トレヴェリアン、松浦高嶺・今井宏訳『イギリス社会史 2』(東京:みすず書房、1983年)361頁。
6. T. C. Smout, A Century of Scottish People: 1830-1950, (London: Fontana Press, 1986), p.187.
7. Callum G. Brown, The Social History of Religion in Scotland Since 1730, (London and New York: Methuen & Co. Ltd, 1987), p. 136.
8. Donald C. Smith, Passive Obedience and Prophetic Protest: Social Criticism in the Scottish Church 1830-1945, (New York: Peter Lang Publishing, 1987), pp.110-112.
9. David Daiches, Glasgow, (London: Grafton Books, 1986), p.142.
10. Tom Gallagher, Glasgow: The Uneasy Peace, (Manchester: Manchester University Press, 1987), p.12.
11. Keith Robbins, op. cit., p.76.
12. 1876年には連合長老教会のイングランド大会との合同によりPresbyterian Church of Englandと改称した。
13. 村岡健二・木畑洋一編『世界歴史大系 イギリス史3―近現代―』(東京:山川出版社、1991年)128頁。
14. T. C. Smout, A Century of Scottish People: 1560-1830, (London: Fontana Press), p.312.
15. ibid., p.313.
16. ibid., p.322.
17. ibid., p.331.
18. Ann Matheson ed., Memorial of Hugh M Matheson, (London: Hodder and Soughton, 1899), p.8.
19. ibid., p.260. 講演は、1878年にグラスゴーで行われたもの。
20. ibid., pp.13-15.
21. Callum G. Brown, "The Costs of Pew-renting: Church Management, Church-going and Social Class in Nineteenth-century Glasgow", in Journal of Ecclesiastical History, vol.38 No.3 (July 1987), p.359. 座席料は1871年の数字に基づくもの。
22. Ann Matheson, op. cit., p.15.
23. Peter Ward Fay, The Opium War 1840-1842. (Chapel Hill: University of North Carolina Press, 1975), p.159.
24. Ann Matheson, op. cit., p.35.,
25. ibid., p.50. 1846年7月16日に従兄弟宛にかかれた手紙の文章。
26. Maggie Keswick ed., The Thistle and the Jade: A Celebration of 150 Years of Jardine, Matheson & Co., (London: Octopus Books Ltd, 1982), p.28.
27. Edward Band, Working His Purpose Out: The History of the English Presbyterian Mission, 1847-1947, (London: Presbyterian Church of England, 1947), p.10. 同書はイングランド長老教会による海外宣教百年史である。やはり宣教師自身の書いた歴史書として、台湾におけるイングランド長老教会とカナダ長老教会の歴史をとりあげたHugh Macmillan, Then Till Now in Formosa, (London: English and Canadian Presbyterian Church in Formosa, 1953)がある。
28. Alexander Mackenzie, History of the Mathesons with Genealogies of the Various Families, (Stirling: Eneas Macay, London: Gibbings & Coy. Ltd., 1900), pp.142-144, Anthony Slaven and Sydney Checkland eds., Dictionary of Scottish Business Biography 1860-1960, volume2, pp.301-302.
29. Donald C. Smith, op. cit., p.107.
30. Band, Working His Purpose Out, pp.2-3.
31. J. A. Mangan, "Images for confident control", in J. A. Mangan ed., The Imperial Curriculum: Racial Images and Education in the British Colonial Experience, (London and New York: Routledge, 1993), p.10.
32. Ann Matheson, op. cit., pp.145-146. ヒューが1847年に教会に提出した覚え書きの中の文章。
33. マックス・ヴェーバー著、大塚久雄訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(東京:岩波書店、1989年)146頁。
34. Band, Working His Purpose Out, p.571.
35. グッズラフの活動とイングランド長老教会との関わりについては、George A. Hood, Mission Accomplished?: The English Presbyterian Mission in Lingtung, South China, (Frankfurt am Mein, Bern, New York: Verlag Peter Lang, 1986)Chapter1を参照。
36. George Woodcock, The British in the Far East, (London: Weidenfeld and Nicholson, 1969), p.99.
37. Eye-Witness, The Opium Trade in China, (Leeds: Edward and Baines and Sons, 1858), p.18. ロンドン大学アジア・アフリカ研究所所蔵長老教会文書(The Presbyterian Church of England Archives, 以下、PCEAと略す), Microfiche No.1896.
38. James Johnston, Glimpses of Missionary Work in China, (Edinburgh: William P. Kennedy, 1860), p.64, PCEA Microfiche No.1898.
39. H.M. Matheson, "Treaty with China", in Times, February 2, 1870, PCEA Microfiche No.1893.
40. 杉原薫『アジア間貿易の形成と構造』(京都:ミネルヴァ書房、1996年)65頁。
41. 石井摩耶子「19世紀後半の中国におけるイギリス資本の活動―ジャーディン・マセソン商会の場合―」(『社会経済史学』第45巻4号、1980年)11頁。
42. Ann Matheson, op. cit., p.168.
43. Paul A. Cohen, "Christian missions and their impact to 1900", in John K. Fairbank ed., The Cambridge History of China: volume 10 Late Ch'ing, 1800-1911 Part 1, (Cambridge, London, New York, Melbourne: Cambridge University Press, 1978), p.565.
44. Records, China Centenary Missionary Conference, (Shanghai: Centenary Conference Committee, 1907), pp.768-775
45. Edward Band, Working His Purpose Out, p.97.
46. この問題に関しては、George A. Hood, op. cit., Chapter3を参照。
47. 台湾基督長老教会総会歴史委員会『台湾基督長老教会百年史』(台南:台湾教会公報社、1965年)10−12頁。黄武東・徐謙信合編・頼永祥増訂『台湾基督長老教会歴史年譜』(台南:人光出版社、1995年)8−10頁。
48. Letter from Donald Matheson to the Earl of Clarendon (March 31, 1869) in Great Britain, Parliament, House of Commons, Sessional Papers, Correspondence Respecting Missionary Disturbances at Che-foo and Taiwan(Formosa), (London: Harrison and Sons, 1969), p.24, PCEA, Microfiche No.1913.
49. ibid., p.22, p.24.
50. 連合王国における「食人」言説の歴史については、正木恒夫『植民地幻想―イギリス文学と非ヨーロッパ』(東京:みすず書房、1995年)を参照。
51. 東田雅博『大英帝国のアジア・イメージ』(東京:ミネルヴァ書房、1996年)186頁。
52. W. S. Swanson, The China Mission of the Presbyterian Church of England: Its History, Methods, Results, (London: Presbyterian Church of England, 1887), PCEA Microfiche No.1929. ヒュー・マカイ・マセソンによる前書き。
53. Ann Matheson, op. cit., pp.305-308.
54. 台湾領有の方針の決定過程については、Edward I-te Chan, "Japan's Decision to Annex Taiwan: A Study of Ito-Mutsu Diplomacy, 1894-95", in Journal of Asian Studies, XXXVII:1(November, 1997)を参照。
55. Leonard H. D. Gordon, "Taiwan and Powers", in Leonard H. D. Gordon ed., Taiwan: Studies in Chinese Local History, (New York and London: Columbia University Press, 1970), p.109.
56. 国会図書館憲政資料室所蔵伊藤博文文書「日清戦争講話始末付録会見要録」(370)。
57. "The Making of New Japan'" in The Westminster Gazette, March 4, 1895.
58. 小松緑『伊藤公全集 第2巻』(東京:伊藤公全集刊行会、1927年)学術演説、231頁。
59. Ann Matheson, op. cit., pp.203-205. なお、このヒュー・マセンソンの文章は『伊藤博文伝 上巻』979−982頁にも参考文書として英文のまま載せられている。
60. 春畝公追頌会『伊藤博文伝 上巻』(東京:統正者、1943年)105頁。
61. 同右書、69−72頁。
62. 同右書、106頁。
63. 松沢弘陽『近代日本の形成と西洋経験』(東京:岩波書店、1993年)166頁。
64. 三好信浩『日本工業教育成立史の研究』(東京:風間書房、1979年)267頁、Ann Matheson, op. cit., p.206。
65. Paul A. Cohen, op. cit., p.558.
66. 松沢、前掲書、261―263頁。
67. 中村敬宇「格物探源序」1878年(大久保利謙編『明治啓蒙思想集』東京:筑摩書房、1867年)288頁。
68. 荻原隆『中村敬宇研究―明治啓蒙思想と理想主義―』(東京:早稲田大学出版会、1990年)161頁。
69. 伊藤博文「教育議」1879年(山住正己編『日本近代思想体系 6 教育の体系』東京:岩波書店、1990年)80−83頁。
70. 清水伸『帝国憲法制定会議』88頁。
71. 前掲『伊藤公全集 第二巻』政治演説49−50頁。1896年1月、第9議会貴族院における演説。
72. 後藤新平「台湾誌」(大隈重信編『開国五十年史 下巻』東京:開国五十年史刊行会、1909年)808頁。なお、同書は英語版が、Shigenobu Okuma ed., Fifty Years of New Japan (Kaikoku Gojunen Shi), vol.2, (London: Smith, Elder & Co.,1909)として刊行されている。
73. Thomas Barclay, The Church, in Formosa in 1895, The War: Mission Work: The Outlook (London: Publication Committee, 1896),pp.3-5, PCEA Microfiche No.153.
74. Edward Band, Working His Purpose Out, p.123
75. Edward Band, Barclay of Formosa, p.87.
76. 翁佳音『台湾漢人武装抗日史研究』(台北:国立台湾大学出版委員会、1986年)83頁、140頁。
77. 前掲黄・徐『台湾基督長老教会歴史年譜』99頁。
78. "The Japanese in Formosa", in Times, July 18, 1896. 外務省外交史料館所蔵『台湾南部ニ於テ本邦人虐殺ヲ行ヒタリトノ義ニ付在英加藤公使ヨリ実否問合1件』。
79. William Campbell, Handbook of the English Presbyterian Mission in South Formosa, (Hastings: F. J. Parsons, Ltd., 1910), p.187.
80. Dr. Barclay's Reminiscences,(manuscripts), PCEA Box121.
81. 雲林事件については、柏木一朗「日清戦争後における治安問題―雲林虐殺事件を中心に―」(『法政史学』第48号、1996年3月)を参照。
82. 8月18日付け加藤駐英公使書簡(9月23日外務省収受)。前掲『台湾南部ニ於テ本邦人虐殺ヲ行ヒタリトノ義ニ付在英加藤公使ヨリ実否問合一件』。
83. 徳富蘇峰編著『公爵桂太郎伝 乾巻』(東京:故桂公爵記念事業会、1917年)735−736頁。
84. 同上書、736頁。宮内庁編『明治天皇紀 第九』(東京:吉川弘文館、1973年)107頁。
85. Maggie Keswick, op. cit., p.195.
86. W. Campbell, Sketches from Formosa, (London, Edinburgh, New York: Marshall Brothers Ltd., 1915), pp.298-300.
87. W. Campbell, Formosa under the Japanese: Being the Note of a Visit to the Taichu Prefecture, (Helensburgh: J. Lamont, 1902), pp.17-18, pp.28-29, PCEA Microfiche No.149-150. 表紙に「1902年5月29日、スコットランド王立地理学協会の会合で読まれた」と記されている。
88. 呉文星『日拠時期台湾社会領導階層之研究』(台北:正中書局、1992年)35頁。
89. W. Campbell, "A Visit to Japan", in Monthly Messenger, No.660 (March, 1902).
90. Donald C. Smith, op. cit., pp.249-250.
91. 楊士養編著『信仰偉人列伝』(台南:人光出版社、1995年)120−121頁。
92. Campbell N. Moody, The Heathen Heart: An Account of the Reception of the Gospel among the Chinese of Formosa, (Edinburgh and London: Oliphant, Anderson and Ferrier, 1907), p.51.
93. Ibid., pp.47-48.
94. Ibid., pp.52-53.
95. Campbell N. Moody, The Saints of Formosa: Life and Worship in a Chinese Church, (Edinburgh and London: Oliphant, Anderson and Ferrier, 1911), pp.121-122.
96. Campbell N. Moody, The Heathen Heart., p.53.
97. Campbell N. Moody, The Saints of Formosa, p.113.
98. Campbell N. Moody, The Heathen Heart, p.212.
99. 前掲『公爵桂太郎伝 乾巻』737頁。なお、徳富蘇峰の思想に関して、青年期にブリテン流の「平民主義」を説いていた彼が、なぜ「帝国主義者」に変身したのか、ということは、言うまでもなくそれ自体として重要な研究課題である。そこには、本文で指摘したようにブリテンが内向けの「平民主義」と外向けの「帝国主義」という二つの顔をもっていたことばかりでなく、坂本多加雄の指摘するように、蘇峰が「国家」の意識を媒介として、個人のレベルでの「冷血利己主義」を克服しようとしていたという事情も存在するであろう(坂本多加雄『市場・道徳・秩序』東京・創文社、1991年)。しかし、それでは国家のレベルでの「利己主義」の克服はどのようにして可能になるのか。本稿で指摘しようとしたことは、蘇峰のような人物の思想は国家レベルでの「利己主義」を克服する秩序への過大評価から過小評価への揺れ戻しとして理解できるのではないかということであり、そのことはまた一定の歴史的な状況の中でのキリスト教の両義的な性格と文明観の変革のプロセスを十分に認識しえなかったことにも起因しているのではないかということである。