シンポジウム
「熟達化研究の現在とこれから:生涯発達と熟達化」
日本心理学会60回大会発表論文集、S29、1996

ホワイトカラー管理職における熟達化と暗黙知の構造

楠見 孝 (京都大学 教育学研究科)

キーワード:熟達化,生涯発達,職業,実践的知能,管理者能力

1.仕事の熟達化研究の現在
 
 仕事の熟達化研究は,日常認知,状況認知研究において,職人や熟練作業者,店員な どを取り上げ,主に観察による分析をおこなってきた.たとえば,楠見(1992,1993:教心 )は ,飲食店や販売店アルバイトの学習の過程と獲得された知識の構造(カテゴリ,スクリ プ トなど)を自己報告に基づいて明らかにした.一方,人間工学においては,定型的熟練 作 業の熟達化の分析や訓練の設計に関する実証的研究が古くから行われている. ここでは,今後の熟達化研究の課題として,第一に,熟達化の生涯発達における位置 づけ,第二に,不定型なホワイトカラー管理職の熟達化における知識・技能の構造と個 人差の問題を取り上げる.

 2.生涯発達における仕事の熟達化
 
 生涯発達において,熟達化は環境側の制約と主体の選択との相互作用によって進んで いく.青年前期における熟達化は,受験勉強,アルバイト,趣味やスポーツなどでみら れる(楠見,1995).青年後期からは,仕事における熟達化が重要な課題となる.仕事は ,一日 そして人生の内で,最も多くの時間を占める.主体は,仕事の選択と熟達化を通して, 能力を発揮し価値を実現するため,それは,個性化のプロセスでもある.  そして,中高年期には,仕事の熟達化はさらに進む.大企業のホワイトカラーが役員 ( 経営陣)に昇進するのは,ふつう50歳代である.したがって,経営活動へ参与するには , 長い年月をかけて多様な業務を経験することが必要とされる.これは,経営学の学問的 知識や問題解決技法をいくらマスターしても,経営管理問題は解決できないからである .すなわち,実際の仕事の活動に埋め込まれて,言語化できない暗黙知(tacit knowledge)があると考えられる.その獲得には,OJT(On the Job Training)や先輩社員のコー チングのようなガイドされた参加や認知的徒弟性が重視されている.  一方で,中高年者の中には,熟達者でありながら,その獲得した能力や知識が十分に 評価されず,リストラの対象になり,さらに転職もできない人達もいる.

 3.管理職の熟達化を支える知識の個人差

 熟達化によって形成した能力や知識の構造,その個人差の解明は,研究のためだけで はなく,個人の評価のためにも重要である.Sternberg(1994)は,知能研究から出発 して ,実践的知能や創造性,知恵の構造を,情報処理的アプローチと個人差測定アプローチ を統合して解明することをめざしている. とくに,Wagner(1989)との一連の研究では ,管 理職の経営問題解決を支える暗黙知の構造を解明する質問紙研究をしている.この日本 版を楠見(1995:日心)は作成し,ホワイトカラー管理職者と非管理職者,学生に対して ,質 問紙調査をおこない,暗黙知の構造を比較検討した.  ここで,管理職者のもつ知識には,まず仕事の手順やそれを支える内容的な知識があ る.しかし,実際には,非定型的で多様な場面への適切に対処するような適応的熟達化 が求められている.一方,アルバイト,一般事務職や熟練労働者は,一般に手際のいい 熟達者(波多野・稲垣,1983)となることが求められている. Wagner(1987)や楠見(1995,日心)は,経営問題解決場面に関する質問紙の因子分析に 基 づいて,ホワイトカラー管理職のもつ暗黙知(実践的知能)を,つぎの3つに分けた.第 一は,[タスク管理]である.これは特定の業務を遂行するためのノウハウ,情報処理の 効率化が関わる.第二は,[他者管理]であり,対人的要因である.部下,同僚,上司と 関係作りのノウハウである.とくに,管理職の仕事は人間関係の網の中で問題解決を図 ることが必要な場合がある.第三は,[自己管理]である.これは,メタ認知的側面と意 志的側面がある.自分の動機づけをコントロールしたり,自分を組織の中に組み込むノ ウハウでもある.なお,これら3因子は,有能な心理学者の実践的知能の構造とも対応 した(Wagner,1987).さらに,この暗黙知尺度得点を求めたところ,その得点は,管理 職経験年数と相関 が高く,学歴や年齢とは相関がなかった.この結果,日米とも共通していた.このこと は,日米いずれも経営管理能力の暗黙知は,学歴よりも管理職経験によって獲得される ことを示している.

 4.まとめ:熟達化を支える動機づけ要因  

 管理職の熟達化を支える能力(暗黙知)として,3に挙げた以外の能力としては,意志 疎 通力(理解力,表現力),意思決定能力(分析力,判断力,決断力)などがある.なお,AT &Tにおける追跡調査では,管理職の熟達化の指標ともいえる昇進と,最も相関が高い尺 度は,昇進への動機づけの強さであった(Howard & Bray,1988).このことは,熟達化を 推進する力として,動機づけや意志的側面が重要な役割を果たすことを示している.

[付記]本研究の一部は,日本労働研究機構 ホワイトカラー研究会でおこなった.

文献

楠見 孝:中間管理職のスキル,知識とその学習 日本労働雑誌(日本労働研究機構),No47439-49.


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