自分自身を理解することは可能か   反対意見  担当:美馬拓也




"自分自身を理解することは可能か"という命題の構造分析
自分自身と→肉体or精神
理解するということ→認識or制御

と分けて考えることにする。

1.肉体を認識できるか?

肉体は今日の医学技術によってどのような現象が身体におこっているか特定することが出来、間接的に理解することはほぼ可能であろう。
ただし精神病など、現象を特定できても明白な解決策が特定できないものも沢山ある。

2.肉体を制御できるか?

不可能である。生理的現象に「反射」(膝の下をトンカチで叩くやつ)があるが、いかに足を掻こうがそれを止めることは不可能である。
他にも、咳などの生理現象が当てはまる。
 つまり、肉体を理解することを制御することとして弁論することは無意味である。

3.精神を認識できるか?
精神と大まかにいっても具体性にかけるのでとりあえず、プラトン的に精神(プラトンにおいては魂としている)を3分割する。
理性、気概(意志)、欲望(情欲)。
これらを全て完全に認識することは可能だろうか?
もちろん、理性、気概、欲望のそれぞれをある程度認識することは可能であろう。
問題なのは、それが「完全」に認識できているのかというところにある。
もし、それが「完全」でないならば、自分自身を理解することは不可能だということになる。
その「完全」さとは、つまり言語化(精神を具現化すること)できるかということにある。
なぜなら、もし言語化できない精神があるならば、それは不完全だからだ。
ソクラテスの無知の知が如く、いかに精神の不完全さを認識しているのだからそれを含めて完全だと論じようが、それは言葉のあやに過ぎない。

それは、麻薬の運び人に似ている。
外国で「中身は知らなくていいから日本に運んでくれ」と渡された何が入ってるか分からない袋(言語化できない精神)をトランク(全体の精神)につめて、 荷物検査で引っかかって、
監査官に「この袋に何が入っている」ときかれて、「しりません」(言語化できません)では通じないのと同じだ。逮捕される。
つまり、完全な精神の認識とは、完全に精神を言語化することによって達成されるといえよう。
では、それは可能か?


例えば、chopin(ショパン)のFantasie Impromptu(幻想即興曲)という曲がある。
(もちろん歌謡曲でもpopsでも一般性があればなんでもいいし、ピカソやゴッホとかの絵画でもいい)
この曲(絵画)を聴いて、自分自身は何を感じたのか認識してみよう。
例えば、この曲を私が理解する上で、譜面をみればいい。
そうすれば全ての音、全て音程、ベロシティーを理解することができるだろう(絵画の場合は、顔料、筆、タッチ等)
また、作者の生活の資料や交友関係の文献を読めば、chopinの当時の感情や思考を予想して、作品を理解する上で役に立つかもしれない。

その上で、私はこの曲を聞いて、ある種の悲しさや切なさというものを感じる。
私は「悲しさ」「切なさ」と言語化することが出来たが、
では「悲しさ」や「切なさ」という言葉でこの曲が私にあたえた印象を確実に表現できているのか、それは確実に否である。
このモヤモヤとした、言葉に表せないものを私は今持ち合わせている。
私は、chopinの曲を聴いて、今の感情を言葉に表すことが出来ない。
精神を完全に言語化することができない。

つまり、芸術が存在するということ=精神を言語化することはできない、ということなのである。
一般的な芸術とは言語化できない精神を表現するためのツールであり、
またその言語化できない精神の輪郭をなぞることで、精神の本質を探る手段である。
芸術がこの世から消えない限り、永遠に精神を理解することは出来ないだろうし、自分自身を理解することはできない。

ここに例として数人の芸術家の格言を引用してみたい。

*芸術とは目に見えることを写すことではない。見えないことを見えるようにすることなのだ。<クレー>
*芸術とは感情にほかならない。<ロダン>
*なぜ私は作曲するのか、私が心の中に持っているものが外へ出なければならないのだ。だから私は作曲するのだ。<ベートーベン>

4.精神の制御

半分可能で、半分は不可能。なぜなら、3で述べたように精神を認識することすら不可能であるから。



以上より、自分自身を理解することは不可能である。