ホワイトカラーにおける暗黙知とその継承

                           楠見 孝(京都大学)

 

ホワイトカラーにおける暗黙知とは

学校や本で学んだ知識が、仕事における業績にすぐに結びつかないのはなぜだろうか? それは、暗黙知という、経験を通してでしか学ぶことのできない知識や技能がなければ仕事をうまく進めることができないからである。

  暗黙知は、言葉で表現することが難しく、手順の形で示されていない知識である。とくに、最近のホワイトカラーの仕事は、複雑で非定型的なものになりつつある。決まり切った仕事を忠実にこなすだけでなく、環境の変化に適応することが求められている。しかし、そのために必要な暗黙の知識とは何だろうか? そしてどのようにしたら獲得できるのだろうか?

  こうした暗黙の知識や技能を調べるためにイェール大学の心理学者スタンバーグ教授らのグループは、優れた業績を上げているホワイトカラーの管理職に面接して、これまでの経験において大事な出来事、そこから得られた教訓や知識について調べた。そして、そこから質問紙調査をおこない、三つの暗黙知を明らかにした。

一つめは仕事の管理である。これは、業務を効率的に遂行するためのノウハウや技能である。二つめは、他者管理である。これは、部下・同僚・上司とのチームワークや、得意先などとの関係作りのノウハウや技能である。ホワイトカラーの仕事は、人間関係の網の目の中で、問題解決をはかることが必要になる。三つめは自己管理である。これは、自分のやる気をコントロールし、自分を組織の中にうまく活かしていくためのノウハウである。

  この三つの暗黙知は、営業・研究などの領域でも、そして私たちの研究においても見いだされている。生産・ものづくりの現場では、作業を正確に遂行するための技能が一番重要であり、リーダーになると、チームワークのための対人技能の重要性が増す。そのどちらにおいても自分を組織の中で活かすように、うまくモチベーションをコントロールすることの大切さは共通している。

 

暗黙知はどのように獲得されるのか

仕事で役に立つ知識や技能は、現場での経験から学習するものである。仕事の上で、一人前さらに熟練者になるためには十年程度の長い時間を必要とすることが知られている。このことに関して、小樽商科大学の松尾睦准教授は、その間に質の高い経験を積むことの重要性を指摘している。それでは同じ経験年数でも個人差が生まれるのはどうしてなのだろうか?

  私たちが研究から得た答えの一つは、経験から学習する能力や態度の違いである。職場では、研修よりも実際の仕事の経験から知識や技能の獲得を求められている。とくに、経営環境の変化や技術革新が急速に進む現在においては、管理職は、難しい仕事に取り組む挑戦性や、仕事の変化に応じた適応力と柔軟性が求められている。

 

暗黙知の継承とは

  現在、多くの職場においては、熟練者のもっていた暗黙知を機械化や情報化して、マニュアルを作成することが進んでいる。しかし、若手はマニュアルを読んだだけでは、暗黙知を学習できない。このことに関連して、関西学院大学の松本雄一准教授は、鉄管製造現場の作業者や生協職員らの面接調査や観察に基づいて、技能の継承について研究している。それを私たちの研究とあわせて考えると、暗黙知の継承のために必要なこととして、つぎの二つのことがいえる。

  一つめは、現場の様々な場面において、先輩や熟達者を模倣し、自分なりに実践してみることである。とくに、ホワイトカラーの仕事では、商談やクレームの処理など他者との交渉に関わる場面、生産・ものづくりの仕事では、機器の操作など身体で覚える場面、トラブル発生や危険な場面での、模倣と実践が重要である。二つめは、成功やとくに失敗の経験そして、周りの人からのフィードバックから、内省し教訓を引き出して学習することである。

  職場の機械化は、定型的な仕事を効率化したが、一方で人は、想定外のトラブルや状況の変化に対応することを一層求められるようになった。このように、機械化やマニュアル化が進んでも、現場の中で培われてきた、暗黙知を若手にいかに継承していくかは重要な課題である。

 

暗黙知を獲得し継承するには

  暗黙知を獲得し継承するために重要なこととしては、つぎの三つを挙げたい。

  一つめは、組織の中で自分の持ち味(技能、経験など)を活かす工夫をすることである。二つめは、積極的に新しい仕事に挑戦し、その中で、新しい知識や技能を獲得し、試してみること、つまり経験からの学習をすることである。三つめは、こうした個人的な経験を言葉に表し、本などで学んだ知識と結びつけることである。四つめは、それを職場内で共有することである。暗黙知は、個人の力だけで獲得されるものではなく、先輩・同僚など周囲の人との相互関係を築く中で獲得されるものだからである。

  最後に、若年層と中高年層が暗黙知を継承する上で必要な環境づくりについて考えてみたい。

  一つめは、若者が組織において最初の十年間に質の高い経験を積む機会を保証することの大切さである。このことは、個人の仕事における成長、組織の人材育成、社会の発展にとって重要なことである。

  二つめは、中高年が経験によって得た技能や知識に対して適切に評価して敬意を払い、それを若手に継承できるような仕組みをつくることである。重要な暗黙知をもつ中高年が、その知識を継承できずにリストラされることがある。これは、個人にとっては人生の多くの時間を占めた仕事の達成を評価してもらえないことであり、組織にとっても仕事を進めるために重要な知識を失うことになるからである。

 

文献

楠見 孝 1999  中間管理職のスキル,知識とその学習  日本労働雑誌(日本労働研究機構),No47439-49.

小口孝司・楠見 孝・今井芳昭(編) 2003 エミネントホワイト:ホワイトカラーへの産業・組織心理学からの提言 北大路書房 [PDF目次広告]

 

Global Edge, 13, 12-13,2008. 所収 PDF